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空城計

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空城計(くうじょうけい)または空城の計(くうじょうのけい)は兵法三十六計の第三十二計にあたる戦術。

野戦で敵に敗れた場合、既にして敵軍が圧倒的に優勢な状況であることが多い。その状態で城に逃げ込んでも結局最後には補給を断たれ、降伏することを余儀なくされるだろう。自軍が圧倒的に数が少ない場合、敵軍が攻城戦や包囲戦に移ることを防ぐためには、敵将に自軍の戦闘能力を錯覚させることが重要である。例えば敵軍に攻め寄せられた際に城門を開け放ち、自ら敵を引き入れようとすれば優秀で用心深い指揮官ほど逆に警戒するものである。

三国志演義』では諸葛亮が野戦でに敗れた際に、蜀軍は魏軍と比べて圧倒的に兵力が少なかった。そこで諸葛亮は一計を案じ、城に引きこもって城内を掃き清め、城門を開け放ち、兵士たちを隠して自らは一人楼台に上って琴を奏でて魏軍を招き入れるかのような仕草をした。魏の司馬懿は諸葛亮の奇策を恐れてあえて兵士に城内に踏み込ませなかったという。


正史では、漢中争奪戦の際、蜀の将軍・趙雲が空城計を使って曹操軍を撤退させたのが初である。 敵の食糧を奪いに行った黄忠が帰陣の時間を過ぎても戻って来ないので、趙雲は残った少数の部下を率いて黄忠の応援に向かった。 ところが黄忠の軍が見つからないうちに突然、趙雲軍は曹操軍の大軍に遭遇したが、無謀にも馬を敵の大軍の中に突入させたところ、曹操軍は乱れて退却し始めた。 暴れ回っていた趙雲は、これを見ると馬の首を反転させるや、今度はまっしぐらに自分の陣に向かって退却した。 それを見ていた曹操軍は一斉に追い始め、趙雲の陣近くまで達すると、急に指揮官が馬上から手を上げて、全軍を静止した。 不気味にも趙雲の陣の門が開かれ、中がシーンと静まりかえっているからだ。 指揮官は「おそらく伏兵がいるに違いない」と考え、退却を命じた時、突然後方から石や矢が飛んできた。 やはり趙雲軍は陣の外に伏兵を配置しており、曹操軍は散々な目にあって逃げ去って行ったとされている。


北斉の北徐州刺史・祖珽の攻撃を受けた際、城門を開放し、守備兵を降ろして城内を静めさせ、人や鶏・犬の往来を禁じた。陳の軍勢は城内が無人ではないかと考えて備えを設けなかった。祖珽が兵に叫ばせ鼓を響かせたところ、陳の軍勢は驚いて遁走した。

代、吐蕃が河西に侵攻し瓜州を陥落させた。瓜州刺史・張守珪が州城を再建しようとした際にもまた襲われた。城中に防御の備えはほとんど無く、みな闘志を失っていた。張守珪は「敵は多勢、我々は無勢、被害は甚大で矢石を以て持ち応えることもできない。臨機の手段によるべきである」と言い、城上で将士との宴席を設けた。吐蕃の軍勢は城中に備えがあるのではないかと疑い、敢えて攻めずに去った。

日本戦国時代徳川家康がこの空城計を使ったことがある。 三方ヶ原の戦いで家康軍は武田信玄軍に大敗し、わずかな兵と共に浜松城に逃げ帰った。 山県昌景ら信玄軍は追撃したが、浜松城の門が開かれ、中で篝火が明々と焚かれているのを見ると、指揮官が「待て」と曹操軍の指揮官と同じように全軍の突入を止めた。 武田軍の指揮官は信玄の教えによって、ほとんどが中国古来の孫子六韜三略などの兵法を知り尽くしており、指揮官は「これは空城の計だ」と叫び、軍を引き揚げさせた。 家康は武田軍の知におぼれた考え過ぎによって、危機を脱したのである。 その直後、家康は反撃を開始し、武田軍を窮地に誘い込んで散々に損害を与えたという話しが残っているが、これは家康方の流した嘘だといわれている。 その時の家康に反撃の余力などなく、もし武田軍が浜松城に突入したら、家康をはじめ全将兵の命は無かったといわれている。 日本では伝来時期が不明だが、マスメディアなどでこの例が空城計を引用したという例として報告されることがある。

このように、自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略を空城計と呼ぶ。但し敵方に見破られた場合即座の全滅の危険性があり、際どい心理戦であることは言うまでもない。