相良長継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

相良 長継(さがら ながつぐ、天正4年(1576年) - 慶長5年9月15日1600年10月21日))は、安土桃山時代薩摩国島津氏の家臣で、元は鎌田氏通称は甚吉郎、甚兵衛。父は鎌田政近、母は相良長秀の娘。妻は岩切善信の娘。子は相良舎人祐。

鎌田政近の三男として誕生したが、叔父である相良長信が病身となったため、外祖父である長秀の養嗣子となった。しかし、後に長信に嫡男長広が誕生したため、長継は嫡流を長広に明け渡して次男格となった。

主君である島津義弘忠恒父子に従い、文禄・慶長の役庄内の乱に参戦した。関ヶ原の戦いにも従軍したが、従者3名と共に討ち死にした。享年25。法名は「玄通要律居士」。

名跡は、長継の戦死後に誕生した舎人祐が継いだ。

参考文献[編集]

  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)