田宮流
田宮流(たみやりゅう)は、居合の始祖と言われる林崎甚助重信(林崎甚助)の五大高弟の一人、田宮重正が開いた居合と剣術の流派。
概要
田宮重正は奥州出身の林崎甚助に従い、居合の奥義を会得。当時の柄の平均的な長さよりも三寸程長い長柄の刀を考案、推奨した。
重正の息子である田宮長勝は、紀州藩初代藩主徳川頼宣に仕え、田宮流と称して千人以上の弟子に広めた。長勝の後は、平兵衛長家(長勝の嫡男) - 三之助朝成 - 次郎右衛門成道と続き、紀州藩での田宮流は、直系の五代目までを「古田宮流」、養子相続の六代目以降を「紀州田宮流」とも呼ぶ。
三代目長家は慶安5年(1651年)3月、紀州藩士で柳生宗矩の門人・木村助九郎とともに召されて将軍・徳川家光に上覧、田宮流の名を広めた。 長家の弟子の斉木三右衛門が江戸において田宮流を広めたため、それぞれの地域で独自の発展をしたものも多く、江戸時代中期以降、竹刀と防具を用いた打ち込み稽古を採用する系統もいくつか現れた。 徳川頼宣の次男・徳川頼純が、紀州藩の分家である伊予西条藩に移った際、田宮対馬守長勝常円の弟子・江田儀左衛門によって、田宮流が伊予西条藩に伝えられている。
天保12年(1841年)、旗本の窪田清音が田宮流居合を将軍・徳川家慶に上覧した。安政3年(1856年)に幕府が講武所を開設すると、窪田清音は男谷精一郎と共に頭取に就任、門下生の戸田忠道が剣術師範役、戸田忠昭が剣術教授方に就いている。幕府講武所頭取として当時の武術界大御所であった窪田清音は門人が兵学3000人、武術600人、「剣法略記」など剣術、兵学の専門書を130冊著したことから、田宮流は全国に広まった。[1] この系統は窪田派田宮流と呼ばれ、田都味嘉門、加藤田平八郎、真貝忠篤を輩出している。 大津事件の大審院長として有名な児島惟謙、剣豪商人と称され、大阪商工会議所会頭を務めた土居通夫は、宇和島藩士時代に、田都味嘉門の門下で窪田派田宮流を修業、免許皆伝を認められている。[2]
真貝忠篤は、美濃大垣藩士として戊辰戦争を生き残り、維新後は警視庁撃剣世話掛、宮内省皇宮警察師範を勤め、根岸信五郎(神道無念流)、得能関四郎(直心影流)とともに「東都剣術三元老」と呼ばれ明治後期の剣術家の間で大御所的存在であった。
伝系
*古田宮流
林崎甚助重信→田宮対馬守重正→田宮対馬守長正→田宮兵衛尉長家→田宮三之助朝成→田宮次郎右衛門成道
*新田宮流
田宮平兵衛業正→三輪源兵衛→和田平助政勝
*窪田派田宮流
林崎甚助重信→田宮対馬守重正→田宮対馬守長正→田宮兵衛尉長家→田宮三之助朝成→斉木三右衛門清勝→露木伊八郎高寛→塚原十郎左衛門昌勝→平野匠八尚賢→窪田助太郎清音
田宮流は廃藩置県後も多くの地域で伝承されていたが、多くは失伝したと考えられている。紀州田宮流と、窪田派田宮流の真貝忠篤とその息子の真貝寅太郎から教えを受けた者が現存している。
脚注
参考文献
- 綿谷雪「武藝流派辭典」(人物往來社)
- 「田宮流兵法居合」(筑波大学武道文化研究会)
- 笹間良彦 「図説・日本武道辞典」(柏書房)
- 「日本剣豪100人伝」(歴史群像編集部)
- 榎本鐘司「幕末剣術の変質過程に関する研究」(武道学研究)
- 「徳川家と江戸時代 尚武の時代 寛永剣術事情」(歴史群像編集部)