田倉雅雄

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田倉 雅雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都町田市
生年月日 1955年(68 - 69歳)
選手情報
ポジション 投手[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 東海大学
  • 東海大学付属相模高等学校

田倉 雅雄(たくら まさお、1955年 - )は、東京都町田市出身の日本の高校野球指導者[1]東海大学付属相模高等学校元保健体育科教諭[1]

経歴[編集]

町田市立堺中学校時代にエースとして活躍[1]

原貢率いる東海大相模高校に憧れ、入学。3年夏には投手として、甲子園大会に登板[1]

高校卒業後は東海大に進み、野球部に所属。1976年の大学選手権で日本一を経験している[1]

高校時代の恩師の原が東海大の監督に就任するのに伴い、東海大の投手コーチに就任[1]

1979年春からは24歳にして、東海大相模高校の監督に就任[1]。1980年には自身による不祥事(後述)で夏の大会を辞退し、その後一時的に監督から退任[1]。1984年に監督に復帰[2]。1980年、1986年、1988年の春の県大会で優勝[1]。その後は東海大相模中の野球部監督を経て、1995年からは高校野球部の部長に就任した[1]

2017年3月末をもって同校を定年退職[1]。同校や野球部には47年近く携わり続けた[1]

定年退職後は自身の母校の東海大が所属する、首都大学野球連盟の事務局長に就き、リーグ運営に携わっている[3]

人物[編集]

東海大相模の野球部には半世紀近い約47年間携わり続けた。歴代の東海大相模高校野球部の卒業生約1400人の中で1970年8月20日、2000年4月4日、2011年4月3日、2015年8月20日の全国制覇を四度経験したのは田倉のみである[3]

不祥事(体罰行為)[編集]

1980年夏の神奈川県大会で保土ケ谷球場で行われた3回戦にてベンチに戻った投手に平手打ちをし、神奈川テレビの中継カメラにライブで放映された。田倉は試合後の取材に対し、「地に足が着いていなかったから、目を覚ます意味でした」と暴力を指導の一つといった回答をした。しかし、視聴者から当時の高校野球人気、体罰容認の風潮がある中でも多数の猛抗議が殺到。重く見た日本高野連の方針を受けて、2日後、その後の試合を東海大相模を辞退した。田倉はその秋、日本学生野球協会から改めて1年間の謹慎処分を受けた。[1]

脚注[編集]