甘南備高直
甘南備 高直(かんなび の たかなお、宝亀6年(775年) - 承和3年4月18日(836年5月6日))は、平安時代前期の貴族。姓は真人。正五位下・甘南備清野の三男。官位は従四位下・摂津守。
経歴
若くして文章生に補せられる。延暦23年(804年)少内記に任ぜられたのち、平城朝では大宰少監兼西海道観察使判官を、嵯峨朝の初期には近衛将監を経て、弘仁6年(815年)従五位下に叙爵。
のち、陸奥介・上野介と地方官を歴任する。天長3年(826年)常陸守に任ぜられるが、地方監察官の監査に伴い、前任の守であった佐伯清岑の罪に縁座して国司の任務を停止された。しかし、下僚や民衆は高直の徳化に感じ、競って国庫の損害を補填するのに必要な経費を供出した。さらに嵯峨上皇までもが情けをかけ、荘園の収益から都合を付けて高直の必要分に充当したという[1]。なおこれ以降、常陸国は親王任国となり、同年に賀陽親王が常陸太守に任ぜられたことから、高直が臣下で最後の常陸守となっている。天長6年(829年)摂津守に任ぜられる。
天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴い、正五位上次いで従四位下と続けて昇叙されるが、翌承和元年(834年)母親が死去すると、悲しみによりほとんど死んだも同然の状態となり[1]、承和3年(836年)4月18日卒去。享年62。最終官位は散位従四位下。
人物
身長が6尺2寸(約188㎝)もあった。文筆に優れ、琴や書も巧みであったという[1]。
系譜
- 父:甘南備清野
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:甘南備弥雄
- 男子:甘南備六雄
- 男子:甘南備縄雄