片多徳郎

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片多徳郎自画肖像(昭和元年)

片多 徳郎(かたた とくろう、明治22年(1889年6月24日 - 昭和9年(1934年4月27日)は、大分県出身の洋画家である。

経歴[編集]

『午休み』(昭和元年)

大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。

明治45年(1912年)、東京美術学校卒業。文展第3回に『夜の自画像』、第4回に『黄菊白菊』、第5回に『或る人の母』を出品した。第10回出品の『婦女沐浴』と第11回出品の『伎女舞踏図』は、当時では珍しい伝統的な題材と復古的な重厚な色彩とが異色で、以後、帝展における日本化された洋画の代表者と目され、大正7年(1918年)『花下美人』、大正8年(1919年)『霹靂』、昭和4年(1929年)『秋果図』、昭和7年(1932年)『秋果一枝』を帝展に出品した。この間、審査員に挙げられ、また受賞歴があり、また絵画団体を結成し、また明治神宮絵画館壁画『憲法発布観兵式行幸啓図』を描いた。

大酒のために心身を害して昭和9年(1934年)4月に失踪し、名古屋市中門前町本願寺別院境内で縊死体で発見された。

関連項目[編集]

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