源師時
源 師時(みなもと の もろとき、承暦元年(1077年) - 保延2年4月6日(1136年5月8日))は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、左大臣・源俊房の次男。白河上皇・鳥羽上皇に信任され、正三位・権中納言に至るが、父祖の官位に達することはなかった。日記『長秋記』は院政期初期の重要史料の一つとして重んじられている。
詩歌に優れ、和歌では『金葉和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に20首が入集[1]、また兄の源師頼とともに『堀河百首』の詠み手の一人である。漢詩においても師である大江匡房から「この君は、詩の心得て、よく作り給ふ」[2]と賞賛されている。父俊房を継いで有職故実に通じ、源有仁等にも教導した。また、作庭をよくし、鳥羽殿の庭園の造営を手がけたという[2][3]。
経歴
寛治2年(1088年)11月、12歳で叙爵。同7年(1093年)3月、左兵衛佐として昇殿を許される[4]。承徳1年(1097年)蔵人。近衛少将・中将等を兼ね、嘉承2年(1107年)12月、皇后宮権亮を兼ねる。この時より、死没まで皇后宮職(長承3年(1134年)よりは大皇太后宮職)として令子内親王に仕える。保安3年(1122年)正月、鳥羽天皇の蔵人頭となり、同年12月、参議に至る。大治5年(1130年)権中納言、保延1年(1135年)、中納言の労にて正三位に昇るが、翌年死去する。
逸話
『今鏡』によれば、妻を6-7人持ち、毎晩のようにそれぞれの妻の所へ一晩中渡り歩き、正午頃まで朝寝をしていた。また妻同士も仲が良く、言葉を交わして交際していたという[2]。
系譜
- 父:源俊房
- 母:源基平の娘
- 妻:源師忠の娘
- 男子:源師仲(1116-1172)
- 妻:官女某(中宮女房)
- 男子:源師清
- 妻:家女房
- 男子:源師行(?-1172)
- 妻:中務丞頼清の娘(または頼俊の娘[5]。姓不明)
- 男子:源師任
- 生母不明
- 男子:源師基
- 男子:源師親