源信雅
源 信雅(みなもと の のぶまさ、承暦3年(1079年) - 保延元年5月15日[1](1135年6月27日))は、平安時代末期の貴族。初名は家定。村上源氏、右大臣・源顕房の六男。官位は正四位下・陸奥守。
経歴
馬権頭[2]の任にあった寛治7年(1093年)に昇殿。永長元年(1096年)の大田楽においては、源重資らとともに小鼓を打つ。承徳2年(1098年)正月に右少将。長治元年(1104年)に従四位下。散位を経て長治2年(1105年)3月以前に[3]加賀介に任ぜられ、同官職を長く務めた後に大治3年(1128年)に陸奥守。その後重任し、在職のまま保延元年(1135年)に卒去。
藤原忠実の家司を務め、その衆道の相手でもあったとされる。『富家語』には、忠実が信雅とその子成雅の容貌を比較して批評した話が収録されている。
系譜
脚注
参考文献
- 竹鼻績『今鏡 (下)』講談社学術文庫、1984年