渡辺千恵子

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渡辺 千恵子(わたなべ ちえこ、1928年9月5日 - 1993年3月13日)は、日本平和運動家[1]1945年8月9日の長崎原爆投下における、著名な被爆者の1人である[2]。長崎原爆乙女の会副会長。被爆し、下半身不随になりながらも、車椅子生活で核廃絶運動の先頭に立った[3]

人物

1928年に長崎県長崎市銅座町に生まれる。16歳の時、学徒動員で働いていた三菱電機製作所で被爆し、崩れた建物の下敷きになって脊椎を骨折、下半身不随になった。1955年に「長崎原爆乙女の会」の結成に参加し、それ以降、被爆者運動、原水爆禁止運動を行う[4]1956年8月9日、長崎市で開かれた「第2回原水爆禁止世界大会」において、被爆時の体験をスピーチした。その時の草稿は今も残されている[3]。このスピーチで注目を集めた彼女は、国内だけでなく米ニューヨークでなど海外でも活躍を見せた。昭和57年第2回国連軍縮特別総会では、「核兵器は人間そのものを否定する」と述べた。1993年3月13日に死去(享年64歳)[5]。なお、渡辺千恵子の半生を表現した合唱組曲として「平和の旅へ」がある。

著書

  • 「長崎に生きる (“原爆乙女” 渡辺千恵子の歩み)」(新日本新書)ISBN 9784406058858
  • 「長崎を忘れない」(草土文化)
  • 「長崎に燃えよ、オリンポスの火」(草土文化、共著)
  • 「長崎よ、誓いの火よ (車いすの平和の旅) 」(草の根出版会)

脚注