海軍国防政策委員会・第一委員会

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海軍国防政策委員会・第一委員会(かいぐんこくぼうせいさくいいんかい・だいいちいいんかい)とは、大日本帝国海軍の中で国家総力戦に向けての準備をするために軍令部海軍省の課長級スタッフで構成されて作られた組織横断的なタスクフォースである[1]

設立経緯

高田利種が海軍省軍務局第二課長予定者[注釈 1]である時、軍令部と海軍省に横断する組織を作り大日本帝国陸軍に対抗しようと考え立ち上げた[2]

概要

主要なメンバーは富岡定俊(当時軍令部作戦課長、大佐)、大野竹二(当時軍令部、大佐)、高田利種(当時海軍省軍務局第一課長、大佐)、石川信吾(当時海軍省軍務局第二課長、大佐)の4人である[1]。軍令部の機密を扱うため作戦室を使用し極秘裏に審議したが、決定機関ではなく権限は極めて曖昧であった。非常に閉鎖的であり、例えば物資動員や出師準備の担当である軍令部第二部第四課長の栗原悦蔵元少将が自分も出席する必要がある旨主張し資料を抱えて会議に入ろうとしたら富岡定俊に「あなたは入る必要がないんだから」と制止されたという[3]。権限がないため過激であり、しかし永野修身(当時軍令部総長)は会議の席でも居眠りをし作戦計画に鋭い指摘を飛ばすこともなく、「これは第一委員会でパスしたのか?」「よかろう」と[2]第一委員会の報告書を無批判に採用し[3]、1941年には海軍の政策決定はほとんどこの委員会の下固めにより進んで海軍は一気に開戦に向けて動くこととなり[1]、これにつき鳥巣健之助(元中佐)は海軍反省会でこの委員会が「むちゃくちゃに戦争に持って行った」「魔性の海軍」と強く批判している[4]

『現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度』

第一委員会は1941年に6月に『現下情勢ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度』という機密報告書をまとめた[4]。内容は「速に和戦孰れかの決意を明定すべき時機に達せり」「(米英蘭が石油供給を禁じたる場合)猶予なく武力行使を決意するを要す」「泰仏印に対する軍事的進出は一日も速に之を断行する如く努るを要す」「(政府及陸軍に対し)戦争決意の方向に誘導するを要す」としている。

永野修身(当時軍令部総長)は1941年5月頃まではそれほど開戦に積極的ではなかったが、この資料により非常に強い影響を受けて以来非常に強硬になったと佐薙毅は証言している[3]。 この後歴史は仏印進駐、対日石油禁輸、開戦とこの通りに展開した[4]

この『現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度』は1963年の『太平洋戦争への道』(日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編)にて初めて紹介され、旧海軍関係者に衝撃を与えた[5]。この文章が与えた影響について、陸海軍並立となった戦史叢書「開戦経緯」では双方で異なる見解がなされている[6]

注釈

  1. ^ 実際には高田利種は第一課長に就任し、石川信吾が第二課長に就任した。

出典

  1. ^ a b c 『日本海軍400時間の証言』pp.115-118「第一委員会の闇」。
  2. ^ a b 『日本海軍400時間の証言』pp.131-135「もう一つの肉声」。
  3. ^ a b c 『日本海軍400時間の証言』pp.118-122「永野軍令部総長の変節」。
  4. ^ a b c 『日本海軍400時間の証言』pp.112-115「開戦のシナリオ」。
  5. ^ 中尾祐次『海軍文書「現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度」の評価』戦史研究年報 第4号
  6. ^ 庄司潤一郎『「戦史叢書」における陸海軍並立に関する一考察-「開戦経緯」を中心として-』戦史研究年報 第12号

参考文献