浪岡具永
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 長享元年(1487年) |
死没 | 不詳 |
改名 | 朝家→具永 |
別名 | 顕永、浪岡御所 |
官位 | 従五位下、侍従、従五位上、弾正台弾正大弼、正五位下、従四位下、左近衛中将 |
氏族 | 浪岡氏 |
父母 | 父:浪岡顕具 |
子 | 具統、具信 |
浪岡 具永(なみおか ともなが)は日本の戦国時代の武将。陸奥国の名族浪岡氏の第7代当主。
生涯
浪岡城を本拠とした。鎮守大将軍北畠顕家の末裔であるといい、将軍を御所と敬称する当時の慣習から、陸奥国一帯で「浪岡御所」と呼ばれた。内政手腕に優れ、朝廷と交渉するために上洛し、任官を受けたという。
官位
『歴名土代』による。
- 天文5年(1536年) 6月14日:叙爵。侍従(源朝家)
- 天文9年(1540年) 6月24日:従五位上に昇り弾正大弼(以降源具永)
- 天文17年(1548年) 正月5日:正五位下
- 天文21年(1552年) 2月28日:従四位下に昇り左中将
没年について
浪岡氏に関する没年に関する情報が安永4年(1775年)に作成された京徳寺過去帳の他に浪岡氏の没年に関する資料が見られないため、史料性には疑問を持たれつつも通説として具永の死没年は天文24年5月24日(1555年6月13日)としてきた。[1] 一方で外浜油川村(青森県青森市油川)の熊野山十二所権現社の棟札銘には、永禄2年に具永が同社を再興したとされている。[2] 併せて平成23年『補略』と総称される公家名簿の史料郡が学会に相次いで紹介された。その補略には具永は6年(1563年)時点で存命と認識されており、再検討の必要性を赤坂恒明は指摘している。[3]
脚注
参考文献
- 赤坂恒明 最北に栄えた“南朝北畠系”の堂上公家(日本史史料研究会 監修、神田裕理 編、『ここまでわかった 戦国時代の天皇と公家衆たち―天皇制度は存亡の危機だったのか』(洋泉社、2015年)ISBN 978-4800308122