河野通幸

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河野通幸
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正10年(1582年
死没 慶安元年4月8日1648年5月30日
別名 五郎左衛門、松安
戒名 良仙
墓所 建長寺正統庵
官位 大蔵卿法印
幕府 江戸幕府 奥医師
主君 小早川隆景徳川家光
氏族 河野氏
父母 河野通縄
兄弟 女子、女子、寿林尼通幸
通宗、正円、桑山栄晴妻、伊東祐泰妻、安部正広
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河野 通幸(こうの みちゆき)は、安土桃山時代から江戸時代前期の医師。江戸幕府奥医師。号は松安(しょうあん)。

経歴

伊予国の名族河野氏の傍流といい、父通縄(治伝)は河野通宣の曾孫とも、河野氏滅亡の際に死んだ河野通信の子ともいう。父通縄については複数説あり、天正16年(1588年)に妻子を伴って上洛したとする説、それ以前に徳川家康に仕えて同年に死去したとする説、河野氏滅亡後に小早川氏を頼ったとする説がある。当初は小早川隆景に仕える。文禄の役に従軍したが、その際に医学書「三因方」を入手。その後長崎で医術を学んだというが、これを父通縄の事績とする説もある。

元和6年(1620年)姉寿林尼老女を務めていた将軍世子家光の侍医となり、のち奥医師となる。寛永11年(1634年)家光の上洛や、同13年(1636年)の日光参詣に扈従している。寛永5年(1628年)同僚の岡孝賀とともに法印に叙任。慶安元年(1648年)死去し。家督は長男通宗(良以)が継承し、代々医師として幕府に仕えた。

逸話

  • 家光が小金原で鹿狩りを催した際、御前に手負いの猪を無銘の刀で猪を斬り殺た。家光は通幸を称してその無銘の刀に「獅子切」の名を与えられた。

参考文献