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歌川広重 (2代目)

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二代目 歌川 広重(にだいめ うたがわ ひろしげ、文政9年〈1826年〉 - 明治2年9月17日1869年10月21日〉)とは、江戸時代浮世絵師

来歴

初代歌川広重の門人。姓は鈴木または森田、名は鎮平。立斎、立祥、喜斎と号す。初代歌川広重と同じく定火消し同心の息子であった。弘化1844年-1848年)のころ初代広重に入門し、初め重宣と称した。美人画花鳥画武者絵を描き、やがて風景画も描くようになり、徐々に初代の作域に近付いてゆく。安政5年(1858年)に初代が没すると、翌安政6年(1859年)広重の養女お辰の婿になり、二代目歌川広重を襲名した。この時、お辰は16か17歳であった。二代目広重は師の画風を忠実に継承した風景画などを描いた。慶応元年(1865年)、お辰22歳の時に20歳という年齢差が災いしてか夫婦喧嘩により、お辰と離別することになる。以後は森田姓を称し、横浜に移り住んで喜斎立祥と号し、外国輸出用の茶箱のラベル絵を描いたので、人々から「茶箱広重」と呼ばれ、特に外国人からは重宝がられた。

安政6年(1859年)12月に描かれた「諸国名所百景 尾州名古屋真影」(那珂川町馬頭広重美術館所蔵)では、月夜に浮かぶ名古屋城の天守閣上にある金鯱を大胆にクローズアップしている。初代広重の晩年の揃物「名所江戸百景」にも参加し、全120図の内「赤坂桐畑雨中夕けい」(東京芸術大学大学美術館所蔵)には、「二世広重画」と款している。さらに、改印が安政6年4月になっている「市谷八幡」、「上野山下」、「びくにばし雪中」の3点の作者も二代広重であるとされる。また「立祥」の落款では横浜絵開化絵を残した。享年44歳。

肉筆画では、安政元年-安政5年作画の「遊君図」(紙本着色・ニューオータニ美術館所蔵)が知られ、「重宣筆」の落款に「重宣」の朱文方印を捺している。画風は、師に倣って歌川派様式の美人を描いており、温和であったとされる彼の性格がうかがわれる一品である。門人に4代目歌川広重がいる。

代表作

錦絵

  • 『末広五十三次 浜松』 「広重」の落款 浜松市美術館所蔵
  • 『末広五十三次 白須賀』 「広重」の落款 浜松市美術館所蔵
  • 『三十六花撰 東都入谷朝顔』 「立祥」の落款 慶応2年(1866年千葉県立中央博物館所蔵
  • 『名所江戸百景 赤坂桐畑雨中』 大錦 安政6年
  • 『諸国名所百景』 大錦揃物 安政6年から文久元年
  • 『横浜岩亀見込之図』 大錦3枚続 万延元年
  • 『隅田川八景』 大錦8枚揃 文久元年
  • 『東都三十六景』 大錦36枚揃 文久元年、2年
  • 『東都名所』 横大錦藍摺揃物 文久2年
  • 『東京名所三十六花撰』 大錦36枚揃 慶応2年

肉筆浮世絵

  • 『大磯の虎御前と馬上の十郎図』  絹本着色 「重宣筆」の落款 「重宣」印有り 安政6年以前 神奈川県立歴史博物館所蔵 
  • 『不二遠望図』 紙本墨画 「重宣筆」の落款 印章不明 日本浮世絵博物館所蔵
  • 『遊君図』 紙本着色 「重宣筆」の落款 「重宣」朱文方印 ニューオータニ美術館所蔵
  • 『秋草に美人図』 絹本着色 「廣重筆」の落款 「立斎」朱文方印 日本浮世絵博物館所蔵 
  • 『夜桜図』 絹本着色 「廣重筆」の落款 「立斎」白文方印 幕末 出光美術館所蔵
  • 『日光の滝図』 絹本着色 「廣重」の落款 「壱立斎」朱文方印 熊本県立美術館所蔵
  • 『待乳山雪景図』 紙本着色 「二世廣重」の落款 「壱立斎」朱文方印 城西大学水田美術館所蔵
  • 『二嬌納涼図』 絹本着色 「廣重」の落款 バーデン=ヴュルテンベルク州立リンデン民族学博物館所蔵(ベルツコレクション)

参考図書

  • 『増訂浮世絵』- 藤懸静也(1946年、雄山閣)→近代デジタルライブラリー※270頁
  • 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻)-日本浮世絵協会編(1982年、大修館書店
  • 『浮世絵の見方事典』-吉田漱(1987年、北辰堂〉
  • 『図説浮世絵入門』-稲垣進一編(1990年、河出書房新社)
  • 『肉筆浮世絵大観(3) 出光美術館』-小林忠(1996年、講談社)
  • 『肉筆浮世絵大観(8) ニューオータニ美術館』-小林忠(1995年、講談社)
  • 『広重 初代~五代広重のガイドブック』-奥田敦子編(2007年、太田記念美術館)

関連項目