檀道済

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檀道済(だんどうせい、生年不明 - 436年)、高平郡金郷の人。東晋末から初頭にかけての武将である。宋の建国者である劉裕とともに戦場を渡り、第2代皇帝である少帝の後見でもあった。のちにその武名を恐れた文帝によって殺害される。

人物

決起軍

404年、東晋を滅ぼして自ら皇帝を僭称していた桓玄を討伐するため、劉裕に従い決起し、大いに功績をあげている。416年には、劉裕の北伐に先方として参戦し、後秦を滅ぼした。そのときの功により、征虜将軍および琅邪内史となる。

興国の元勲

東晋に代わり宋が建国されると、永脩県公、南兗州刺史となる。422年、劉裕は、檀道済や徐羨之傅亮謝晦に後事を託し、死去する。第2代皇帝として少帝が即位したが、徐羨之らと共に少帝を廃し、文帝を擁立する。424年の文帝の即位に伴い、征北将軍となる。また、426年には、少帝廃立・殺害の罪を問われた謝晦を討伐し、征南大将軍、開府儀同三司、江州刺史となる。なお、檀道済が江州刺史であった頃、野に下った陶潜の才能を惜しみ、仕官を勧めているが拒絶されている。

431年、檀道済は北伐を実行し、北魏歴城に到達するも兵糧不足のため撤退する。やがて宋軍の最高職である司空となる。

その死

檀道済自身、才能におぼれるところがあり、そのため、文帝としばしば対立することがあった。このため文帝が病に倒れた際、後難を怖れた文帝により殺害されることとなる。このとき捕らえられた檀道済は、文帝の目の前で頭巾を床にたたきつけ、「自分を殺すことは万里の長城を壊すことに等しい」と叫んだと伝えられている。

宿敵であった檀道済が殺害されたことを知った北魏は、宋への侵攻を開始した。文帝は檀道済を失ったことを後悔したという。

三十六計

北魏への北伐の際、宋軍は歴城まで達するも兵糧不足となり、逃亡者や士気の衰えが出始めていた。やむなく檀道済は撤退を決定するが、宋軍の損失を最小限にとどめるための策を考案した。

枡に砂を盛って米のように見せ、また余った兵糧を地面にばら撒き、兵糧が豊富にあるかのように偽装した。これを見た北魏軍は、宋軍の兵糧が尽きていないと思い込んだ。そこで檀道済は宋軍を悠然と退却させたが、北魏軍は伏兵を懼れて追走してこなかった。

後世になり、この出来事を南斉の将軍である王敬則が、「檀公の策は数多くあるが、逃げることをもっとも得意とした」といい、「三十六計逃げるに如かず」の語源となった。檀道済の「三十六計」は17世紀明末初の時代に纏められた「兵法三十六計」との直接の関係はない。

伝記資料

  • 宋書』巻43(列伝第3)