檀道済

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

檀 道済(だん どうせい、? - 436年3月)、東晋末から初頭にかけての武将。高平郡金郷の人。宋の建国者である劉裕に仕え、宋第2代皇帝・少帝の後見になったが、のちにその武名を恐れた文帝によって殺害された。

生涯[編集]

決起軍[編集]

404年、東晋を滅ぼして自ら皇帝を僭称していた桓玄を討伐するため、劉裕に従い決起し、大いに功績をあげている。416年には、劉裕の北伐に先方として参戦し、後秦を滅ぼした[1]。そのときの功により、征虜将軍および琅邪内史となる。

興国の元勲[編集]

東晋に代わり宋が建国されると、永脩県公、南兗州刺史となる。422年、劉裕は、檀道済や徐羨之傅亮謝晦に後事を託し、死去する。第2代皇帝として少帝が即位したが、徐羨之らと共に少帝を廃し、文帝を擁立する。424年の文帝の即位に伴い、征北将軍となる。また、426年には、少帝廃立・殺害の罪を問われた謝晦を討伐し、征南大将軍、開府儀同三司、江州刺史となる。なお、檀道済が江州刺史であった頃、野に下った陶潜の才能を惜しみ、仕官を勧めているが拒絶されている。

431年1月、檀道済は北伐を実行し、北魏歴城に到達するも兵糧不足のため撤退する[2]。やがて宋軍の最高職である司空となる。

最期[編集]

檀道済自身、才能におぼれるところがあり、そのため、文帝としばしば対立することがあった。またその威勢は天下に奮い、左右の腹心は全員百戦の勇者で子弟は皆才気煥発の俊秀ばかりだった[1]。このため文帝が病に倒れた際、重臣の讒言と国を奪われるという後難を怖れた文帝により殺害されることとなる[1]。このとき捕らえられた檀道済は、文帝を睨みつけながら目の前で頭巾を床にたたきつけ、「自分を殺すことは万里の長城を壊すことに等しい」と叫んだと伝えられている[3]

人物・逸話[編集]

北魏への北伐の際、宋軍は歴城まで達するも兵糧不足となり、逃亡者や士気の衰えが出始めていた。やむなく檀道済は撤退を決定するが、宋軍の損失を最小限にとどめるための策を考案した。枡に砂を盛って米のように見せ、また余った兵糧を地面にばら撒き、兵糧が豊富にあるかのように偽装した。これを見た北魏軍は、宋軍の兵糧が尽きていないと思い込んだ。そこで檀道済は宋軍を悠然と退却させたが、北魏軍は伏兵を懼れて追走してこなかった。後世になり、この出来事を南斉の将軍である王敬則が、「檀公の策は数多くあるが、逃げることをもっとも得意とした」といい、「三十六計逃げるに如かず」の語源となった。檀道済の「三十六計」は17世紀明末初の時代に纏められた「兵法三十六計」との直接の関係はない。

檀道済の死を知った北魏は「最早宋にはひとりの恐るるに足る者もおらぬ」と喜んだと伝わり[3]、また文帝は449年に北魏軍が大軍を率いて南下し都にまで迫った際、北方を臨みながら「ああ、今もし檀道済が生きていたら、胡び馬にここまで攻めてこさせるような事はなかったろうに」と嘆息して述べたと伝わる[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

引用元[編集]

  1. ^ a b c d 駒田『新十八史略4』、P158
  2. ^ 駒田『新十八史略4』、P154
  3. ^ a b 駒田『新十八史略4』、P159

伝記資料・参考文献[編集]