橘則長
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 天元5年(982年) |
死没 | 長元7年(1034年)4月 |
官位 | 正五位下、越中守 |
主君 |
一条天皇 → 三条天皇 → 後一条天皇 → 後朱雀天皇 |
氏族 | 橘朝臣 |
父母 | 父:橘則光、母:清少納言(清原元輔の娘) |
兄弟 | 則長、季通、光朝、好任 |
妻 | 能因の姉妹、素性不詳 |
子 | 則季、則孝 |
橘 則長(たちばな の のりなが、天元5年(982年) - 長元7年(1034年)4月[1])は、平安時代中期の歌人。父は陸奥守橘則光、母は清少納言。官位は正五位下、越中守。
生涯
大学寮において進士となったのち、蔵人・図書権助と、文官系官歴を重ねる。その後、修理亮・式部丞を歴任したのち、越中守として赴任したが、そのまま任国で卒去したという。
その作歌は『後拾遺和歌集』(3首)、『新続古今和歌集』(1首)などに入集されており[1]、歌人として名を遺した。同じく歌人である能因法師の姉妹を妻とした。『枕草子』の写本系統の一つ・能因本は、この関係からの伝来とされている。