梶原貫五

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梶原 貫五(かじわら かんご、1887年3月6日 - 1958年12月14日)は、日本の洋画家である。

経歴

福岡市出身。福岡県立中学修猷館を中退[1]。1910年上京して東京美術学校に入学し、黒田清輝藤島武二に師事する。在学中の1914年には東京大正博覧会に「化粧の後」を出品し受賞。同年の光風会第3回展に「女」を出品、1916年第4回光風会展では初入選を果たす。1916年東京美術学校を卒業[2]

1917年光風会第5回展に「裸体」で今村奨励賞を受賞、1928年光風会々友、1931年第18回展で光風会会員となる[2]

官展には、1916年第10回文部省美術展覧会(文展)に「縁陰」「窓際」が初入選となり、第11回文展「想韻」、文展の後身である帝国美術院展覧会(帝展)は、1922年第4回展「九月の日」を出品以来毎年出品し、第5回帝展「芽立ち頃」、第7回展「赤い日傘」などが主な作品である。第17回展から招待、無鑑査出品の待遇となる[2]

1933年筑前美術会、1940年福岡県美術協会の創立にも参加している。幣原喜重郎近衛文麿ほか貴族院議員など有名人の肖像画の制作が多い[2]

脚注

  1. ^ 『昭和人物事典 戦前期』(日外アソシエーツ、2017年)
  2. ^ a b c d 『日本美術年鑑』昭和34年版(東京国立文化財研究所、1960年)156-157頁