桑弘羊

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桑 弘羊(そう こうよう、紀元前152年 - 紀元前80年、Sāng Hóng-yáng )は、中国前漢代の政治家財政家武帝期に均輸・平準法専売制の実施など財政面で大きな力を振るった。

生涯

洛陽にて商人の子として生まれる。13歳の時にその計算上の神童ぶりにより宮廷に入り、武帝に侍中に任用される。武帝が連年軍事行動を起こし財政危機に陥ったが、元狩3年(前120年)、商人の孔僅等とともに財政建て直しとして、専売制を実施し大きな効果を挙げる。その功績により大司農中丞に任命され、任命後は均輸法を推進した。

元封元年(前110年)、孔僅が船車税の反対により失脚すると、治粟都尉に登用され、中央に平準官、地方に塩鉄官均輸官を設置してその政策を具体化し、各地の物流を調整して財政収入を向上させ、左庶長の爵位を与えられた。

しかしその財政政策には多くの反対意見が存在した。武帝が死去し昭帝が即位した始元6年(前81年)、全国の知識人を京師に集結し桑弘羊の政策に対し痛烈な批判が行われた。御史大夫の地位にあった桑弘洋はこれに反論、その時の論争は『塩鉄論』にまとめられている。論争の結果、酒の専売が廃止されたが、それ以外の政策は維持された。

翌年、桑弘羊は燕王劉旦及び上官桀の謀反事件に連座し処刑された。

伝記史料

関連項目