林義端

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林 義端(はやし ぎたん、? - 正徳元年 5月4日1711年))は、江戸時代中期の儒学者、小説家版元および本屋経営者。浮世草子の作家として知られる。字は九成、通称は九兵衛、号は文会堂。

伊藤仁斎の門下として儒学を学び[1]、京都で書肆(本屋)「文会堂」を経営した。怪異小説『玉櫛笥』(たまくしげ)・『玉箒子』(たまははき)を著し、京都の書肆経営者の中では儒学者として名声が高かった[2]

生涯

義端はもともと両替商家業としていたが、貞享年間(1684~1688年)に伊藤仁斎の家塾・古義堂に入門すると、元禄4年(1691年)に両替商を辞め、京都東洞院通夷川上町にて書肆「文会堂」を開業した。同年、5月に伊藤東涯(仁斎の長男)に『文会堂記』の執筆を求めた。東涯は同書にて義端の人格や好学を称え、義端の書肆経営は利益のためでなく学問の普及と啓蒙であり、決して賤しいものではないとの旨を述べている。

書肆としての活動は不活発であったが、文会堂林九兵衛方から出発された書籍は、義端に関係のある怪談集を除いては、全てが学問書や啓蒙書であった。

元禄4年11月に浅井了意の著した『狗張子』の序文を記し、元禄5年(1692年)正月に同書を刊行する。元禄6年(1693年)、『玉櫛笥』3巻まで成り、元禄8年(1695年)秋、さらに4巻分を附して7巻成る。同年11月、『玉櫛笥』に序文を記し、同月に刊行する[2]。同年、詩文作法書である『文法授幼抄』を著し、刊行する[3]。元禄9年(1696年)12月、『玉箒子』に序文を記し、同月に刊行する。ただし、同書は文会堂林九兵衛方からは出版されなかった[2]。 義端は、中国小説、特に『剪灯余話』のような志怪小説に心惹かれるところがあり、当初は中国小説の翻案を志していたと考えられるが、「倭詞の俗習に習ふて文を裁する所以を知らず」という理由により、『玉櫛笥』と『玉箒子』の両書は、今日でいう浮世草子という形式により刊行された。

『玉櫛笥』は30話あり、義端の深い知識に裏打ちされた教訓性・啓蒙性が強く、怪談をあくまで怪談とする現実性が強いものである。また、『玉櫛笥』は17話あり、さらに怪談が現実によって解決し、心理的幻影にあるとするなど現実的な展開を見せている。義端の怪異小説は、現実意識に基づく怪談認識によるものであった[2]

元禄11年(1698年)、『搏桑名賢詩集』を、翌宝永元年(1704年)、『搏桑名賢文集』を刊行する。どちらも、伊藤仁斎・東涯父子の詩文が中心であった[3]。また、元禄14年(1701年)、詩文作法書である『文林良材』を著し、刊行している。

この頃、京都に来ていた岡島冠山と出会い討論し、『英烈伝』と『水滸伝』の翻訳を依頼する。宝永2年(1705年)3月、義端が序文を記し、『通俗皇明英烈伝』(『通俗元明軍談』)が林九兵衛ほか合板で刊行される[2]。また、同年に刊行された中村昂然が著した『通俗唐玄宗軍談』の校正も「林九成」名で行っている[4]

宝永3年(1706年)、徳山藩主・毛利元次の編んだ『徳山名勝』を板元として刊行する。宝永4年(1707年)、伊藤仁斎の追悼集である『古学先生碣銘行状』の跋文を記し、文会堂林義端にて刊行する。宝永5年(1708年)春、伊藤東涯・梅宇兄弟と同行し、大坂において参勤交代の途にあった元次に謁見する。宝永5年(1708年)12月、元次の『塩鉄論』を板元として刊行。宝永7年(1710年)、徳山の広範囲な雑詠を集めた元次の『徳山雑吟』に跋文を記して刊行している[3]

義端は正徳元年(1711年)5月に死去したが、岡村冠山の翻訳した『水滸伝』は、義端の死後に『忠義水滸伝』として第1回から第10回が享保13年(1728年)に林九兵衛板として出版され、第11回から第20回が宝暦9年(1759年)に林九兵衛とその一族であろう林権兵衛の合板で出版されている[2]

おもな著作

  • 元禄8年(1695年):『玉櫛笥』、『文法授幼抄』
  • 元禄9年(1696年):『玉箒子』
  • 元禄11年(1698年):『搏桑名賢詩集』(編集)
  • 元禄14年(1701年):『文林良材』
  • 宝永元年(1704年):『搏桑名賢文集』(編集)

関連論文

  • 柳牧也『書肆・林義端考』1960年
  • 太刀川清『林義端とその怪異小説』1972年
  • 熊慧蘇『「採之於唐書、質之於通鑑」考 : 『通俗唐玄宗軍談』の原本について』(『二松學舍大学人文論叢』第69輯)2002年

出典

  1. ^ 『元禄太平記』によると、義端は伊藤素安の高弟とされる。柳牧也『書肆・林義端考』
  2. ^ a b c d e f 太刀川清『林義端とその怪異小説』
  3. ^ a b c 柳牧也『書肆・林義端考』
  4. ^ 熊慧蘇『「採之於唐書、質之於通鑑」考 : 『通俗唐玄宗軍談』の原本について』

関連項目

外部リンク