林旭

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林 旭(りん きょく、Lin Xu1875年 - 1898年)、字は暾谷末の変法派の官僚。

福建省侯官(現在の福州市閩侯県)出身。1895年、内閣中書に任命される。1898年3月、福建省に閩学会を設立し、広東四川浙江陝西の各学会と連携して、維新運動の推進と国会の開設を主張した。戊戌の変法の際には、四品卿軍機章京に任じられ、わずかな期間の間に数多くの上奏を行った。しかし戊戌の政変西太后が政権を奪回すると、譚嗣同楊深秀劉光第楊鋭康広仁とともに斬られた。彼らは「戊戌六君子」と呼ばれる。

著作に『晚翠軒詩集』がある。

妻は沈葆楨の孫の沈鵲応で、才人として知られていたが夫の処刑後服毒自殺した。