松田康郷

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松田 康郷(まつだ やすさと、天文9年(1540年) - 慶長14年5月2日1609年6月3日))は、戦国時代武将。別称は康江、孫太郎、六郎左衛門。肥後守。後北条氏の家臣。松田康定の次男。智勇に優れ、主家の勢力拡大に大きく貢献した。

生涯

天文9年(1540年)、後北条氏の家臣・松田康定(松田憲秀の父・松田盛秀の弟)の次男として誕生。兄に松田康長がいる。

永禄9年(1566年)、越後国上杉謙信が北条方の下総国臼井城へと侵攻して来た際に、同国の大和田城を守っていた康郷は、百騎を率いて千葉胤富白井胤治らが籠もる臼井城へと駆けつけ、奮戦の末に上杉本陣直前まで切り込み、上杉軍を撃破した(臼井城の戦い)。軍神といわれた謙信自らが率いる軍団に多大な被害を負わせたこの戦いは、謙信生涯最大の敗戦といわれ、この戦功により北条氏政から感状と相模国足柄下郡に200貫を賜った。また、この戦の際に朱色の甲冑、具足という赤備えの装備で現れた康郷の働きを見て、上杉謙信が「岩舟山に赤鬼の住むと沙汰しけるは、一定彼がことなるべし」と感嘆し、「鬼孫太郎」「松田の赤鬼」などの異名を取り大いに武名を高めた。

その後も天正10年(1582年)の神流川の戦いなど、北条氏に仕えて各地を転戦するが、天正18年(1590年)の小田原征伐の際には、山中城を守備し奮戦するも城は落城した。小田原城が落城し北条氏が滅亡した後は、結城秀康に仕えた。

慶長14年(1609年)、死去。家督は嫡男・定勝が継いだ。