村上義日

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村上義光 『前賢故実』より

村上 義光(むらかみ よしてる、生年不詳 - 元弘3年/正慶2年閏2月1日1333年4月15日))は、鎌倉時代末期の武将村上信泰の子。兄弟に国信信貞らがあり、子に朝日義隆らがある。官位従五位下右馬権頭。通称は彦四郎。義日とも記される。大塔宮護良親王後醍醐天皇皇子)の忠臣として知られる。

『太平記』での活躍

太平記』では元弘の変の頃、笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉(ぐぶ)した9名の1人として登場する。

『太平記』巻第五 大塔宮熊野落事

道中、十津川郷で敵方の土豪・芋瀬(いもせ)庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞うが、芋瀬は「幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人、もしくは一戦交えた事を示すために御旗を寄越せ」と返答してきた。そこで供奉した9名の1人、赤松則祐(あかまつそくゆう)が親王の御為と名乗り出て「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。殿下の為に、この則祐、敵の手に渡ったてもかまわない」と言った。しかし、供奉した9名の1人、平賀三郎が「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけない。御旗を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れる」と言い、親王はこれを聞き入れて大事な錦の御旗を芋瀬庄司に渡して、その場を乗り越えた。

遅れてやってきた義光も芋瀬庄司に出くわすが、そこには錦の御旗が翻っていた。義光は激昂し「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、敵方に奪われた御旗を取り返し、旗を持っていた芋瀬の下人をひっつかみ、4、5丈(1丈約3メートルなので、12、15メートル)ほどかなたに投げつけた。義光の怪力に恐れをなし芋瀬庄司は言葉を失い、義光は自ら御旗を肩に懸て親王一行を追いかけ無事に追いついた。

護良親王は「赤松則祐が忠は孟施舎(もうししゃ)が義のごとく、平賀三郎が智は陳平が謀略のごとし、そして村上義光が勇は北宮黝(ほくきゅうよう)の勢いをもしのぐ」と三人を褒め称えた。(注:孟施舎と北宮黝は古代中国の勇者。陳平は漢王朝の功臣)。

『太平記』巻第七 吉野城軍事

元弘3年(1333年)、幕府方の二階堂貞藤が6万余騎を率いて吉野山に攻め入った。護良親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂まで兵が迫った。親王はこれまでと最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王を説得し落ち延びさせる。 義光は幕府軍を欺くため、親王の鎧を着て自ら身代わりとなって「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と叫び、切腹して自刃した。この時、自らのはらわたを引きちぎり敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに伏となって絶命したという壮絶な逸話が残る。

なお、子の義隆も義光と共に死のうとしたが、義光はこれを止め親王を守るよう言いつけた。その後、義隆は親王を落ち延びさせるため奮闘し、満身創痍となり力尽き、切腹し自害した。

墓所

村上義光の墓と伝えられる墓が、蔵王堂より北西約1.4kmの場所にある。案内板によると身代わりとなって蔵王堂で果てた義光を北条方が検分し、親王ではないと知って打ち捨てられたのを哀れと思った里人がとむらって墓としたものだという。墓には玉垣に囲まれた宝篋印塔と、向かって右に大和高取藩士内藤景文が天明3年(1783年)に建てたとされる「村上義光忠烈碑」がある。なお、子の義隆の墓は蔵王堂より南1.5km、勝手神社から下市町才谷へと抜ける奈良県道257号線沿いにある。

関連項目