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李祖娥

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李祖娥(り そが、生没年不詳)は、北斉文宣帝高洋の皇后本貫趙郡平棘県

経歴

上党郡太守李希宗の娘として生まれた。高洋の妻となり、太原公夫人となって、高殷(廃帝)と高紹徳(太原王)を生んだ。

北斉が建てられると、文宣帝の正妻として皇后に立てられるはずであった。しかし高隆之と高徳正は、李祖娥が漢人であるため、皇后に立てることに反対した。一方、楊愔北魏の故事を引いて李祖娥の立后を支持した。高徳正はなおも段昭儀を皇后に立てるよう運動したが、結局文宣帝は李祖娥を皇后に立てた。文宣帝は妃嬪たちに鞭をふるうことを好み、殺害に及ぶことさえあったが、ただ李祖娥に対してだけは礼儀を守った。559年可賀敦皇后と改号された。560年孝昭帝が即位すると、李祖娥は昭信宮に住んで昭信皇后と号した。

561年武成帝が即位すると、子を殺すと脅して李祖娥に関係を迫り、李祖娥はやむなく従った。後に妊娠したため、息子の紹徳が訪ねてきた時に会うことができなかった。事実が紹徳に知られたため、李祖娥は大いに恥じて、生んだ娘を取り上げなかった。武成帝は刀を横たえて「おまえがわたしの娘を殺したから、わたしはおまえの子を殺そう」と言い、李祖娥の前で高紹徳を殺してみせた。李祖娥が大泣きすると、武成帝はますます怒って、李祖娥を裸にして鞭打った。李祖娥は流血失神したまま絹の袋に入れられ、諸渠水に投げ込まれたが、蘇生したので犢車に載せられて妙勝尼寺に送られた。李祖娥はもともと仏法を好んでいたので、そのまま尼となった。

北斉が滅亡すると関中に入った。代になって趙郡に帰還した。

伝記資料