李寿 (成漢)
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昭文帝 李寿 | |
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成漢 | |
6皇帝 | |
王朝 | 成漢 |
在位期間 | 338年 - 343年 |
姓・諱 | 李寿 |
字 | 武考 |
諡号 | 昭文帝 |
廟号 | 中宗 |
生年 | 300年 |
没年 | 343年 |
年号 | 漢興:338年 - 343年 |
李寿(り じゅ)は、五胡十六国時代の成漢の第6代君主(皇帝としては第4代)。
生涯
李驤の子として生まれた。李雄に才能を認められて、前将軍・督巴西軍事となり、征東将軍に転じた。328年、父の李驤が死去すると、大将軍・大都督・侍中となり、扶風公に封ぜられた。333年、軍を率いて寧州を平定し、建寧王に進んだ。
334年、李雄が死去すると輔政を託された。李期が即位すると、李寿は漢王に改封され、梁州5郡を食邑とし、梁州刺史に任ぜられた。李越や景騫らと敵対し、弟の李攸を殺されたため、337年に李寿は涪城から成都に進軍し、李期に迫って李越・景騫らを殺させた。任氏(李雄の后)の令と偽って李期を廃位して別宮に幽閉した。338年、皇帝として即位し、国号を漢に改めた。
王嘏・王広を後趙の石虎のもとに派遣して、天下を二分せんことを約した。しかし、李奕を牂柯郡に派遣して攻めさせたが、落とすことができなかった。また、石虎の刑法の厳格であるのを聞いて模倣し、小さな咎で殺罰をふるわせた。さらに鄴の宮殿に憧れて、成都の宮殿を拡張し、城に水を引かせた。民衆は使役に疲れて、巷は怨嗟にあふれた。蔡興や李嶷らが李寿を諫めたが、いずれも殺された。
李寿は病が重くなり、蔡興や李嶷の祟りと噂された。343年に病死し、享年は44であった。安昌陵に葬られた。
長男の李勢が後を継いだ。
伝記資料
- 『晋書』巻一百二十一 戴記第二十一
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