本田親清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。曾禰越後守 (会話 | 投稿記録) による 2021年7月7日 (水) 06:10個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (カテゴリ調整)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

本田 親清(ほんだ ちかきよ、1877年明治10年)12月12日[1][2][3] - 1922年大正11年)5月18日[4])は、明治から大正期の実業家政治家衆議院議員

経歴

鹿児島県[4]川辺郡勝目郷中山田村(川辺郡勝目村[5]中山田[3]川辺町を経て現南九州市川辺町中山田)で、旧薩摩藩士・本田杏介の長男として生まれる[2]。鉱山業、貿易商を営む[2][3][4][6][注釈 1]

大隈重信の支持を受け、田江泰造山瀬幸人らの支援により、1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙に鳥取県郡部から無所属で出馬して当選し[2][6][7]、その後公正会に所属し衆議院議員に1期在任した[4][5]。いわゆる落下傘候補で、選挙期間中、地元にほとんど顔を見せることはなかった[6]。1917年(大正6年)4月、第13回総選挙に鹿児島県郡部から立候補したが落選した[8]

親族

脚注

注釈

  1. ^ 学歴は『現代日本の政治家』公友倶楽部16頁によると、旧制中学校、旧制高等学校で学んだとしているが詳細は不明。

出典

  1. ^ 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、20頁。
  2. ^ a b c d 『人事興信録 第5版』ほ39頁。
  3. ^ a b c d 『現代日本の政治家』公友倶楽部15-16頁。
  4. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』576頁。
  5. ^ a b 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』404頁。
  6. ^ a b c d 『鳥取県大百科事典』893頁。
  7. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』67頁。
  8. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』100頁。

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
  • 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社、1984年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。