扶蘇

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扶蘇(ふそ、? - 紀元前210年)は、始皇帝の長男。は嬴(えい)。聡明で知られ、父や多くの重臣達から将来を嘱望されていた。

父の政治(焚書坑儒)に諫言したため怒りを買う。これにより、北方の騎馬民族・匈奴に対する国境警備の監督を命じられ、僻地の蒙恬の駐屯地へ遠ざけられた。

始皇帝は後継に扶蘇をと考えていたと思われるが、巡幸中に崩御した。始皇帝の喪は混乱を避けるべく秘密にされたが、巡幸に随行していた弟・胡亥丞相李斯宦官趙高の謀略により、後継は胡亥とし、扶蘇には自害を勧める偽の詔が渡された[1]。蒙恬は偽詔であることを看破し、その旨を扶蘇に進言したが、「疑うこと自体義に反する」と述べてそれを受け入れず、偽命に従って自決した。

後に陳勝が秦帝国と皇帝胡亥に対して乱を起こす際、自分は逃れて野に隠れていた扶蘇であると自称した。これは父や李斯のやりすぎを諫めたことで、民衆からも扶蘇の人気が高かったことによる。

その他

  • 小説などでは秦の最後の君主である子嬰は扶蘇の子であるといわれることがあるが、『史記』等の史書に裏付けがある話ではない。


脚注

  1. ^ 『史記』によればそれを企てたのは趙高とされる。

関連項目