成公英

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成公英

列侯・参軍
出生 生年不詳
涼州金城郡
拼音 Chénggōng Yīng
主君 韓遂曹操曹丕
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成公 英(せいこう えい、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。涼州金城郡の人。「成公」が姓で「英」が名。成公は「二字姓」の一つが有力[1]

事跡

韓遂の腹心時代

中平年間(184年189年)末期、同郷の韓遂に仕えて、その腹心となった。建安19年(214年)、韓遂が閻行に攻められた時、仲間が皆逃げ去る中で成公英だけが韓遂の下を離れようとしなかった。韓遂が「益州劉備の下に逃がれてはどうか」と成公英に相談すると、成公英は羌族の下で力を蓄える事を主張した。このため韓遂も羌族の下で保護を受ける事にした。

翌20年(215年)に、韓遂らは羌族数万の軍勢をもって閻行を攻撃したが、韓遂が配下に裏切られ死亡したため、成公英は止む無く曹操に降伏した。成公英は降伏の際、韓遂への忠義の心から号泣し、曹操を感動させている。

晩年

曹操の下では軍師に任じられ列侯に封ぜられた。曹丕(文帝)の即位後は、涼州刺史張既の参軍として北方民族の伊健妓妾・治元多らを討伐し、隴右の平定に大きく貢献した。その後、病没した。

脚注

  1. ^ 盧弼『三国志集解』より。

参考文献