徳大寺実通

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徳大寺 実通(とくだいじ さねみち、永正10年(1513年) - 天文14年4月9日1545年5月19日))は、室町時代後期の公卿後柏原天皇(104代)・後奈良天皇(105代)の二帝にわたって仕え、官位は正二位権大納言右近衛大将まで進んだ。初名は実規。父は左大臣徳大寺公胤。母は尾張守源某の娘。養子内大臣徳大寺公維

永正16年(1519年)に従五位上に叙爵。以降、侍従左近衛中将などを歴任、大永7年(1527年)に従三位となり公卿に列する。その後、権中納言を経て、天文元年(1532年)に権大納言に就任。またこの年に実通と改名。しかし経済的に困窮し、天文3年(1534年)に最初の北国下向。天文5年(1536年)には一度帰京し、従二位正二位と昇進し、天文11年(1542年右近衛大将。しかし天文14年(1545年)に京都で戦乱がおこった際に再び北国へ逃れ、越中国放生津城へ入ったが、同地で神保長職により殺害された。享年33。

これを受けて朝廷では久我家庶子徳大寺公維をもって実通の養子となし、徳大寺家を継がせた。

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