張升

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張 升(ちょう しょう、生没年不詳)は、後漢官僚文人は彦真。本貫陳留郡尉氏県

経歴・人物[編集]

富平侯張放の孫とされる[1]。若くして学問を好み、幅広く読書した。自由気儘で束縛されず、意気投合した者とは身を傾けて交友を結び、貧窮した者や身分の低い者が相手でもこだわらなかった。志の合わない者に対しては、王公大人が相手でも屈することがなかった。「死生は命に有り、富貴は天に在り。其の我を知る有らば、胡越といえども親しむべし。いやしくも相識らずして、物より何の益あらん」といつも放言していた。

陳留郡に仕えて綱紀となり、有能なことから外黄県令を代行した。賄賂を受けた官吏を摘発すると、即座に裁判してこれを処刑した。ある人が「張升は県令の職務を一時的に代行しているに過ぎないのに、厳罰で脅すような統治をおこなってよいものだろうか」と批判すると、張升は「むかし孔子が暫定の宰相職についたときに、夾谷の会の芸人たちを処刑し、その手足を別々の門にさらしたところ、孔子の有能さと威権に強国の斉も震え上がり、は侵略された土地を返還されたといいます。君子は仕えては私事をおこなわず、職に就いてはその懸案を考えるもの。どうして任期の長短で対応が変わったりいたしましょうか」と答えた。党錮の禁に遭って官を去り[2]、後に処刑された。享年は49。

かれによって著された賦・誄・頌・碑・書は合わせて60篇あった。また文集2巻があった[3]

脚注[編集]

  1. ^ 後漢書集解』は洪亮吉の説を引いて、「張升は党錮の禁で49歳で処刑されたので、張升の生年を計算すると、張放の死後すでに130年あまりが経過している。張放の孫というのに何の根拠があるのか」という。また李賡芸の説を引いて、「孫」の上に脱字のあることが疑われるという。
  2. ^ 張升がこのとき罷免されて故郷に帰る途中、道端で友人に会い、我が身を孔子になぞらえて「龍鳳がやってこない」と嘆いていたところ、陳留の老父にたしなめられる挿話が『後漢書』逸民伝にみられる。
  3. ^ 隋書』経籍志四に「外黄令張升集二巻、録一巻」とあり、『旧唐書』経籍志下および『新唐書』芸文志四に「張升集二巻」とある。

伝記資料[編集]

  • 『後漢書』巻80下 列伝第70下