庾肩吾

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庾 肩吾(ゆ けんご、487年 - 551年)は、南朝梁官僚文人は子慎、あるいは慎之。本貫南陽郡新野県。兄は庾黔婁庾於陵

経歴[編集]

司徒主簿の庾易の子として生まれた。8歳で詩を賦すことができ、特に兄の庾於陵に愛された。晋安王蕭綱の下で晋安王常侍を初任とし、宣恵府行参軍に転じた。蕭綱が異動するたびに、肩吾はその府に属して従い、徐摛陸杲劉遵劉孝儀劉孝威らとともに晋安王麾下の文章の士として知られた。王府中郎や雲麾参軍を歴任し、いずれも記室参軍を兼ねた。

中大通3年(531年)、蕭綱が皇太子となると、肩吾は東宮通事舎人を兼ねた。大同初年、湘東王蕭繹の下で安西録事参軍となり、まもなく本官のまま荊州大中正を兼ねた。中録事諮議参軍・太子率更令・太子中庶子を歴任した。蕭綱が文徳省を開いて学士を置くと、肩吾や子の庾信のほか、徐陵・張長公・傅弘・鮑至らが学士に選ばれた。

太清3年(549年)、簡文帝(蕭綱)が即位すると、肩吾は度支尚書となった。侯景の命により江州に赴き、当陽公蕭大心を説得した。蕭大心が侯景に降ると、肩吾はそのまま東方に逃げた。侯景の部将の宋子仙が会稽を落とすと、肩吾は捕らえられて殺されそうになったが、即興で詩を作るよう宋子仙に求められ、これに応じて直ちに作ると、その詩の出来映えはたいへん美しいものであった。宋子仙に釈放され、建昌県令に任じられた。そのまま間道を通って江陵に逃れ、江州刺史となり、義陽郡太守を兼ねた。武康県侯に封じられ、ほどなく死去した。享年65。散騎常侍・中書令の位を追贈された。文集10巻が当時に通行した。

子に庾信があった。

伝記資料[編集]