広州蜂起
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広州起義(こうしゅうきぎ)は、
概要
南昌起義、秋収起義における中国共産党の蜂起の失敗の後、コミンテルンはより一層の武装蜂起の方針を打ち出した。12月11日、中国共産党は、中国国民党の軍隊内にいる左派の人間及び広州の労働者や農民の組織に、広州攻撃を働きかけた。翌12月12日張太雷、葉挺、惲代英、葉剣英、楊殷、周文雍、聶栄臻等の指導者は、広州ソヴィエト政府を樹立したがしかし、すぐに広東軍の将軍張発奎が反撃を開始し、12月13日には中国共産党軍は広州から撤退を余儀なくされた。
広州起義の過程で、労働者は4月の中国国民党が実行した清党上海クーデターの時に鎮圧された人々に対する報復として、捕殺並びに家屋を焼き結果として多くの人々を殺傷した。武装蜂起失敗後、国民政府広州当局は、蜂起に参加した人々を躍起になって捜索、逮捕し多くの労働者が被害を受けた。双方の死者は2万人以上にのぼった。
參考資料
中国語版に書かれた参考資料であり、日本語版では直接翻訳に使っていない。
- 陳永発『中国共産革命七十年』(台北:聯経出版社) 1998年 ISBN 957-80-1848-4