崇禅寺馬場
『崇禅寺馬場』(そうぜんじばば)は、上方落語の演目の一つである。別の題を『返り討』という。
江戸落語にも移植され、『鈴が森』という題で演じられる。
あらすじ
注意:以降の記述には物語・作品・登場人物に関するネタバレが含まれます。免責事項もお読みください。
上方版
喜六が甚兵衛に何かいい商売は無いか相談に来る。甚兵衛は自分こそ追剥だと告げ、怖がる喜六を手下にしてしまう。夜、二人は大阪の北のはずれにある古刹崇禅寺近くの馬場の藪に隠れる。
「ええか。追剥にはおどしの文句が要るんや」 「それ何でんねん」 「わしの言うとおりに言うんやで。『おおい旅人。ここをどこやと思うて通る。明けの元朝から暮れの晦日まで、一人も通らぬ崇禅寺馬場。おれが頭の張り場所じゃ。知って通れば命はなし。知らずに通れば命ばかりは助けてやるが身ぐるみ剥いで置いてゆけ。嫌じゃ何じゃと抜かしたら最後の助。二尺八寸伊達には差さぬ。うぬがどてっ腹にお見舞い申す。キリキリ返事は何と。何と』。…さあ。言うてみい」 「もし、それ誰が言いまんねん」 「…お前が言うんや」 「いつ?」 「今やないかい」 「どこで?」 「ここじゃ」 「…うわア。そんな長い文句よう言えまへんで。こら、ちょっと紙に書いておくれやす」 「紙に書いてどないするねん」 「書いた紙、前にかざしてお辞儀しまんねん」 「新米の乞食やないがな。…お! 来よったで。サア、用意せえ」
どうやら京から大阪に向かう二人連れの旅人である。「早よ出え!」と喜六は刀を持たされて道に突き出されてしまう。
怖気づいた喜六は、震えがとまらず、二人の旅人にもしどろもどろの脅しの文句を言ってしまい相手にされない。「鈍やな。お前は! あっち行っとれ!」とようやく甚兵衛が出てきて旅人の身ぐるみをはぐ。「うまいこと行ったな」と喜んでいるところへ、今度は京大阪間を月三度往復する三度飛脚が来る。
同じように脅しをかけるが飛脚のほうが強く、逆にコテンパンにやられ、身ぐるみはがされてしまう。
「トホホ…えらい目におうた」 「ここはどこですねん」 「崇禅寺馬場やがな」 「道理で返り討ちにおうた」
江戸版
古参の泥棒が新米の泥棒に仕事を教えるために東海道の鈴が森(かつての鈴ヶ森刑場があった辺り)で追い剥ぎをやるという設定で、上方版の喜六に当たる新米の泥棒が上記の脅しの口上が覚えきれず四苦八苦する件のみが演じられる。その口上も「二尺八寸」を「二尺七寸」と言い間違えてしまい、
旅人「一寸足らねえじゃねえか」
新米の泥棒「一寸先は闇でございます」
略歴・概要
- 江戸時代に、大和郡山藩士・遠城治左衛門、安藤喜八郎の兄弟が崇禅寺門前の馬場にて、末弟の敵生田伝八郎によって返り討ちにあったのが、「敵討崇禅寺馬場」の題で芝居や映画になった。サゲもそれによるが現在では全く知られていないので、噺のマクラで説明しておかないと分からない。なお、兄弟の墓は崇禅寺境内にある。
- 珍しい噺だが筋も起伏に富み笑いが多いので、しばしば演じられている。戦前は初代桂春團治、初代桂ざこば、戦後は初代森乃福郎、二代目露の五郎兵衛らが得意とした。
- 初代春團治はこの噺でも、飛脚に藪の中に投げ飛ばされた喜六が、尻の穴にスポンと筍を入れてしまって大騒ぎとなるなど、奇想天外なギャグを盛り込んで爆笑落語にしている。
映画
上記にあるとおり、この落語のサゲの元になった話は数多く日本の剣戟映画の題材となった。
- 『敵討崇禅寺馬場』 : 監督牧野省三、主演尾上松之助、製作横田商会、1911年
- 『崇禅寺馬場仇討』 : 監督牧野省三、主演尾上松之助、製作日活京都撮影所、1915年
- 『崇禅寺馬場仇討』 : 主演市川姉蔵、製作日活京都撮影所、1921年
- 『崇禅寺馬場の仇討』前後篇 : 監督中川紫郎、主演岡部繁之、製作帝国キネマ演芸、1922年
- 『崇禅寺馬場』 : 製作牧野教育映画製作所、1922年
- 『崇禅寺馬場』前後篇 : 監督竜造寺淳平 / 山下秀一、主演瀬川路三郎、製作帝国キネマ演芸小坂撮影所、1925年
- 『崇禅寺馬場』 : 監督マキノ正博、原作山上伊太郎、主演南光明、製作マキノ・プロダクション御室撮影所、1928年
- 『返り討崇禅寺馬場』 : 監督秋山耕作、原作菊池寛、主演高田浩吉、製作松竹キネマ下加茂撮影所、1933年
- 『仇討崇禅寺馬場』 : 監督マキノ雅弘、原作山上伊太郎、主演大友柳太朗、製作東映京都撮影所、1957年