山口重知

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山口 重知(やまぐち しげとも、1885年明治18年)8月7日[1][2] - 没年不詳)は、東京市区長教育者

経歴

新潟県三島郡与板町(現在の長岡市)出身[2]1909年(明治43年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業[1]栃木県立真岡中学校教諭、秋田県立横手中学校教諭、鹿児島県立第二鹿児島中学校教諭、鹿児島県立出水中学校校長、福岡高等学校教授、静岡県立沼津中学校校長を歴任した[1]1925年大正14年)、台湾総督府視学官に転じ、台北高等商業学校教授を兼ねた[1]

その後、名古屋市教育部長、東京市視学・主事・教育局体育教育課長を務めた[2]1938年(昭和13年)、王子区長に転じ、1940年(昭和15年)からは淀橋区長を務めた[2]

脚注

参考文献

  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。 
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版』帝国秘密探偵社、1943年。