尾崎局
尾崎局(おざきのつぼね、大永7年(1527年) - 元亀3年9月30日(1572年11月5日))は、戦国時代の女性。大名・毛利隆元の正室。内藤興盛の三女。毛利輝元、毛利徳鶴丸、津和野局(吉見広頼室)を産む 。実名はあやや(あやゝ)。別名は小侍従とも。法号は妙寿。
生涯
尾崎局は、大内氏家臣で長門国守護代内藤氏の当主・内藤興盛の三女として生まれた。天文18年(1549年)、主家の大内義隆の養女となる形で、当時の有力被官で安芸国の国人領主毛利元就の嫡男隆元の正室として嫁した[1]。毛利家中にあって尾崎局は、守護代という格上の家から迎えた正室として厚遇されるに留まらず、大内氏との外交の窓口としての役割も果たした。天文19年(1550年)7月、毛利家の重臣である井上一族を誅罰した際に、毛利元就は「井上衆罪状書」を尾崎局に出している。尾崎局の父である内藤興盛を通じて大内義隆の了承を求める必要があったからである[2]。
隆元との間には、嫡男で後に家督を相続する毛利輝元(天文22年(1553年)生)、毛利徳鶴丸、吉見広頼の正室・津和野局が生まれた。
大内氏の滅亡後、永禄6年(1563年)に隆元が急死した際に、重臣達に宛て「遺児輝元の養育はわが務め」と母の立場を強く断言する手紙を出している[3]。また、毛利元就は尾崎局を分国経営に参与させ、自身のことは「上様」「御隠居」といった通常の呼称ではなく、「じいさま」と呼ばせていた[4]。元亀2年(1571年)に元就が没した時に、輝元の叔父の吉川元春に輝元の後見を依頼した書状が現存している。「頼れるのは叔父の元春・隆景だけ。親ともなり力になってほしい」と切々と訴える、母の真情が溢れる内容である[3]。義母の中の丸に家庭内の相談をする一方で、宍戸五竜夫人と元春・隆景ら姉弟の仲を心配し、これらの和に努めている[1]。
翌元亀3年(1572年)9月晦日に45歳で死去[1]。墓所は広島県安芸高田市の洞春寺跡。当初は菩提寺である妙寿寺が吉田郡山城内に建てられ、墓も寺内にあったが、後に毛利元就ら毛利一族と共に毛利氏一族墓所に移されている[1]。
登場作品
脚注
参考文献
- 笠原一男 編『彼岸に生きる中世の女』評論社〈日本女性史3〉、1976年。
- 河合正治 編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年。
- 堺屋太一・山本七平ほか『毛利元就―「はかりごと多きは勝つ」 秀吉が、そして家康が畏怖した男』プレジデント社、1997年。
- 田端泰子『山内一豊と千代―戦国武士の家族像―』岩波書店〈岩波新書〉、2005年。