定公 (周)

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定公
不明
王朝
諡号 定公
周朝とは異なる

定公[1](ていこう、? - ?)は、西周時代のの国君で周公旦の後裔。

紀元前841年厲王が暴虐であったため、国人の乱中国語版を引き起こした。厲王は逃走し、定公と穆公が政権を握った。これが共和(周召共和)であった[2]。14年後、厲王は彘の地で崩御し、太子の姫静(宣王)が即位することで、共和行政は収束した。

脚注 [編集]

  1. ^ 今本竹書紀年』では周定公。
  2. ^ 史記』巻四:召公・周公二相行政、号曰「共和」。
定公

不明 - 不明

先代
数代前:平公(周公君陳)
周公
不明
次代
数代後:桓公(周公黒肩)