コンテンツにスキップ

大炊御門麗子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。MystBot (会話 | 投稿記録) による 2011年11月21日 (月) 18:19個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.1) (ロボットによる 追加: en:Fujiwara no Reishi)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

大炊御門 麗子(おおいのみかど れいし、藤原 麗子(ふじわら の れいし)、中宮 麗子元暦2年/文治元年(1185年) - 寛元元年9月18日1243年11月1日))は、鎌倉時代土御門天皇中宮女院号は陰明門院(おんめいもんいん)。

系譜

太政大臣大炊御門頼実の女。生母は左京大夫藤原定隆の女、藤原隆子

略歴

建久9年(1198年)、土御門天皇の大嘗祭の際に女御代を務め、元久2年(1205年)4月、21歳で10歳年下の土御門天皇のもとに入内して女御宣下を受け、同年7月に中宮に冊立される。

しかし麗子は子を産むこともないまま、承元4年(1210年)3月に院号宣下を受け、同年11月には土御門天皇が異母弟の守成親王(順徳天皇)に譲位している。

承久3年(1221年)1月に麗子は出家し、法号を清浄妙と称する。同年5月には承久の乱が勃発し、乱の終結後、土御門上皇は乱に直接関与していなかったにもかかわらず、父後鳥羽上皇隠岐国への配流が決定すると自ら望んで土佐国に配流されたが、麗子は同行せず京に留まった。

寛喜3年(1231年)、土御門上皇が配流先の阿波国で崩御すると、麗子は自身の封戸年官年爵を辞して隠遁し、寛元元年(1243年)、59歳で崩御した。

参考文献

  • 安田元久編 『鎌倉・室町人名事典』 新人物往来社、1990年。
  • 芳賀登他監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1993年。