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大沢基恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大沢基恒
時代 江戸時代前期
生誕 明暦2年(1656年)頃
死没 元禄10年閏2月29日1697年4月20日
別名 通称:七助
官位 従四位上左近衛権少将右京大夫
幕府 江戸幕府 高家旗本
主君 徳川家綱綱吉
氏族 藤堂氏大沢氏持明院家庶流
父母 父:藤堂高次、養父:大沢基将
兄弟 藤堂高久藤堂高通藤堂高堅基恒藤堂高睦、市子、安藤重之正室、
堯円室、石川昌能正室、安藤重之養女
正室:松平忠弘
養子:基隆
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大沢 基恒 (おおさわ もとつね)は、江戸時代前期の高家旗本通称は七助。官位従四位上左近衛権少将右京大夫

生涯

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伊勢国津藩2代藩主・藤堂高次の四男として誕生した。高家旗本・大沢基将の養子となる。

寛文7年(1667年10月23日、4代将軍・徳川家綱御目見し、寛文11年(1671年12月23日より奥高家に列した。翌寛文12年(1672年12月28日従四位下・侍従・右京大夫に叙任された。延宝6年(1678年7月20日、養父・基将が死去したため、その跡を継いで12月6日大沢家の遠江国敷知郡2550石の所領を相続した。21日には父の遺品二字国俊の刀を献上している。

延宝7年(1679年3月7日霊元天皇痘瘡御回復の幕府の慶賀使として始めて京都に派遣、天皇に謁見した。また延宝8年(1680年)7月9日に徳川綱吉の将軍就任に備えた官位転任の交渉のため上洛して参内している。この時に大沢自身にも従四位上が下賜された。天和2年(1682年)12月、五宮(のちの東山天皇)への親王宣下の際にも幕府の使者として京都へ派遣された。高家として幕府に仕え、天和3年(1683年)3月7日には、吉良義央畠山義里と共に最初の高家肝入に就任した。貞享4年(1687年)4月7日、東山天皇即位に際し幕府の慶賀奏上使者の副使として、正使松平正容と共に京都へ派遣された。この際の5月25日、左近衛権少将となっている。

元禄7年(1694年4月、5代将軍・綱吉とその生母桂昌院本庄因幡守宗資邸へ「将軍お成り」した際、大沢も本庄邸へ随行している。

元禄10年(1697年)閏2月29日、死去。享年42。家督は養子・基隆大沢基明の子)が継いだ。

先代
大沢基将
高家大沢家4代当主
1678年 - 1697年
次代
大沢基隆