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吉良親実

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吉良親実
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄6年(1563年
死没 天正16年(1588年)10月
改名 新十郎(幼名)→親実
別名 受領名左京進
主君 長宗我部元親
氏族 吉良氏
父母 父:親貞、母:吉良駿河守宣直の娘?
兄弟 親実吉良親義
正室:長宗我部元親の娘
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吉良 親実(きら ちかざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将長宗我部氏の家臣。吉良親貞の子。

生涯

土佐国戦国大名長宗我部元親の弟・吉良親貞の子。幼少の頃から智勇に優れ、元親の娘を娶ることを許されるなど重用されたが、気性が激しいところがあった。

父の死後、その家督を相続する。そして一門衆として活躍するが、元親の側近・久武親直とは仲が悪く、いつも対立していた[1]。天正14年(1586年)12月、元親の嫡男である長宗我部信親が戦死して跡継ぎ騒動が起こると、親実は長幼の序から元親の次男・香川親和を推し、4男である長宗我部盛親を推す久武親直と対立する。このとき、親実は生来の気性の激しさから、元親に対してたびたび諫言して、長幼の序を守って親和を跡継ぎとすることを進言したが、その諫言がかえって元親の逆鱗に触れることになり、天正16年(1588年)10月、親実は切腹を命じられた[2]

親実の死後、その墓では怪異が絶えなかったと伝えられており[3]、また現代においても交通事故が起こると「親実のたたり」と言われることがある[4]。それゆえか木塚明神や[5]四国では有名な妖怪・怪異である「七人みさき[6]は親実とその主従の無念の死がモデルであるとも言われる。

脚注

  1. ^ 久武との対立は大仏殿建立における木材伐採が原因であるという。
  2. ^ 一族だけではなく親友まで処罰の対象にされた。
  3. ^ 久武親直自身はともかく、久武一族は親実没後に不幸が相次いだという。
  4. ^ 親実の墓より火が燃え出たり、親実の怨霊伝説から首の無い親実らの軍が大高坂に攻め寄せるなど。
  5. ^ 元親は怪異が続いたために家臣の意見を容れて吾川郡木塚に親実を祀ったという。
  6. ^ 親実の死に連座して殺された党類。

参考文献