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吉田兼倶

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吉田 兼倶(よしだ かねとも、永享7年(1435年) - 永正8年2月19日1511年3月18日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての神道家。本姓卜部氏。家系は神道家の卜部家の系譜をひき、兼倶の代に吉田家を興した。父は卜部兼名。初め兼敏と称したが、1466年文正元年)兼倶に改名している。吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者[1]

初め神祇大副を務め、卜部家の家職・家学を継承していたが、次第に家学・神道説を整理し、「神明三元五大伝神妙経」を著して吉田神道の基礎を築いた。その後も神道説の中心となる「日本書紀」神代巻と「中臣祓(なかとみはらえ)」について研鑚を重ね、後土御門天皇に進講したのをはじめ、公家たちにも講義を行った。1484年文明18年)邸内に斎所として大元宮を創建して、日本各地の神を祭った。吉田神道の入門書であり、また根本経典でもある「唯一神道名法要集」「神道大意」「神名帳頭註」を著し、また朝廷・幕府に取り入り勢力を拡大し、みずから「神祇管領長上」と名乗り全国の神社を支配、神位・神職の位階を授与する権限を獲得した。

1511年(永正8年)、77歳で死去。死後吉田社(現在の吉田神社)の境内に葬られ、神龍大明神として祀られている。

著書

  • 『神明三元五大伝神妙経』:吉田神道の経典。
  • 唯一神道名法要集』:吉田兼倶の主著。吉田神道の経典。卜部兼延に仮託されている。
  • 神道大意』:文明18年(1486)。『神道大系』論説篇卜部神道(上)所収。『吉田叢書』第1篇所収。
  • 『神道大意』:吉田兼直に仮託されている。
  • 『神宗国源論』
  • 『十八神道源起抄』
  • 『日本書紀神代巻抄』:『日本書紀』神代巻の注釈書。
  • 『神名帳頭註』:『延喜式』神名帳の注釈書。
  • 景徐周麟『中臣祓聞書』:景徐周麟が記した吉田兼倶の講義ノート。『神道大系』古典註釈篇中臣祓注釈所収。
  • 『中臣祓抄』:吉田兼倶の講義ノート。

脚注

  1. ^ 「事実上」というのは、建前としては吉田神道は吉田家に古くから伝わっている神道説だということになっているからである。

関連項目