吉利忠澄

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吉利忠澄
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文18年5月28日1549年6月23日
死没 文禄4年8月4日1595年9月7日
改名 長虎丸(幼名)、忠澄
別名 三郎九郎、狩野介(通称)、清久
戒名 性梅宗乾居士
官位 下総守(受領名)
主君 島津貴久義久
氏族 島津氏諸流吉利氏
父母 島津久定森山重弘
兄弟 忠澄伊集院忠棟
上井薫兼
忠張
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吉利 忠澄(よしとし ただずみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将島津氏の家臣。

生涯[編集]

吉利氏の祖は島津国久の三男・秀久(忠澄の曽祖父)。祖父の忠将、父の久定以降、吉利を領していたために主君・島津貴久の命で領地名を名字とした。

弘治3年(1557年)、9歳のときに父・久定が死去する。忠澄がまだ若年であったため、貴久は忠澄の叔父・吉利久金に遺領を継がせようとしたが、家臣ら36人が連判して忠澄への相続を求め、受け入れられない場合は切腹する旨を訴え出たために、貴久は忠澄への相続を認めた。また忠澄はこの年に初陣、功を上げ感状と甲冑を賜っている。貴久死後は島津義久の下、大隅国伊地知氏禰寝氏攻略で功を上げ、日向国攻略にも尽力し天正6年(1578年)に日向門川地頭となった。

その後も水俣城攻めや沖田畷の戦い島津家久に従い戸次川の戦いなどにも出陣し数々の大功を上げ、根白坂の戦いでも奮戦し軍功を上げたものの、敗れて元の領地である吉利へ戻った。文禄3年(1594年)に日向内山地頭となったが、その翌年に病死した。

系譜[編集]

参考文献[編集]

  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)