原田宗時

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原田 宗時(はらだ むねとき、1565年永禄8年)- 1593年7月(文禄2年))は、安土桃山時代武将陸奥出羽戦国大名伊達氏の家臣。父は山嶺安長源市郎。幼名虎駒。通称左馬之助。原田氏の祖は伊達氏初代朝宗に仕え、伊達氏累世の宿老家である。


事蹟

永禄8年(1565年)、山嶺安長源市郎の子として生まれる。幼名は虎駒。

天正10年1582年4月、相馬表の戦いにて叔父の原田宗政が戦死する。原田宗政には嗣子がなかったなめ、伊達輝宗の命により、虎駒が原田家の嗣子となることを命ぜられ、御字を賜り、宗時と称し、左馬之助と名付けられる。原田宗時は原田家第17代当主となった。

その後、伊達輝宗に仕え、天正11年1583年、わずか18歳にして原田城(現:山形県川西町上小松)城主を継いだ。その性剛直にして勇武の士。才気に富み、軍務を掌握、各所の戦いにおいて顕著な戦功をあげ、輝宗、政宗の厚い信頼を受けた。

天正17年1589年摺上原の戦いにも参陣して武功を挙げている。

天正19年1591年伊達家が奥州再仕置きによって米沢を召し上げられ、岩出山に移封となると、宗時も原田城から離れ政宗に従った。

文禄元年1592年、秀吉より朝鮮出兵を命ぜられ、政宗に従って渡海する。だが翌年の文禄2年(1593年釜山にて病を患ってしまう。御暇を賜い帰船したが病が益々重くなり釜山浦近くの島に滞留して対馬国まで戻ったが、そこでついに病死した。あるいは釜山浦で死去したという。享年29。

政宗は原田宗時のあまりにも早すぎる訃報を知り、御嘆きのあまり、彌陀の名号を御句の上に置いた『国風六首』を詠じた。

  • 夏衣キツツナレニシ身ナレトモ別ルル秋ノホトソモノウキ
  • 虫ノ音ハ涙モヨホスユフマクレサヒシキ床ノヲキフシモウシ
  • アハレケニ思フニツレス世ノナラヒナレニシ友ノ別モソスル
  • 見ルカラニ猶アハレソウ筆ノ跡今ヨリ後ノ形見ナラマシ
  • 誰トテモ終ニハユカン道ナレトサキタツ人ノ身ソ哀ナル
  • 吹ハラフ嵐ニモロキ萩カハナタレシモ今ヤオシマサラメヤ

死後、宗時には嗣子がいなかったので、政宗の命により、桑折宗長の末子、弁慶[1]が養子に命ぜられ、原田宗資と名乗る。

原田氏が宗時の代まで居城した原田城址には原田氏の愛木である樅の古木が立ち並んでいる。

逸話

朝鮮出兵に参陣した伊達軍は、とても派手な格好をしていて評判になり、京の町では派手好きな人を「伊達者」というようになった。中でも宗時は、同僚の後藤信康と二人で駿馬にまたがり、長さ1間半(約2.7メートル)もの大太刀に、金の鎖をつけて肩から提げ、大太刀が地面につきそうなくらい長刀であったといい、「さすがは伊達者」と人々を驚かせ、人々はみな彼の威を讃えたという。

その後藤信康とは対立関係にあり、ある時に日頃の信康の態度に憤激した宗時は信康に決闘を申し入れたが、信康に諭され和解し、信康の義勇の大きさに敬服して、以後二人は親善を深くしたという。

出典

  • 歴史群像編集部編『戦国時代人物事典』(学習研究社、2009年) ISBN 4054042902
    • 「原田宗時」の項目

参考文献

  • 伊達治家記録

脚注

  1. ^ 弁慶は『伊達治家記録』によると、桑折宗長(点了斎)72歳の子としているが、桑折家系図では宗長の父桑折貞長の五男と記録されている。つまり、桑折宗長の兄弟であり、原田宗時の叔父にあたる