南部義元
時代 | 鎌倉時代 |
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死没 | 正応5年6月13日。?[1] |
改名 | 嫡家系譜では宗行から義元へ、 |
別名 | 南部庄司、三郎二郎、以上「嫡家系譜」・庄司太郎、彦太郎は「南部系譜」 |
戒名 | 逸山俊公 |
墓所 | 山梨県南部町 瑞雲山浄光寺? |
主君 | 北条高時 |
氏族 | 南部氏 |
父母 | 父:南部時実、母:不明 |
兄弟 | 南部政光、南部宗経、南部政行、南部実政、南部宗実 |
子 | 義行、宗行、祐行 |
特記 事項 | 『盛岡南部氏物語』『九戸戦史』などの「嫡家系譜」及び「南部系譜」による。 |
南部 義元(なんぶ よしもと)は、鎌倉時代の武将。甲斐南部氏初代当主。[2]。南部氏宗家、第3世当主南部時実の五男。
生涯
義元は父、宗家第3世時実により甲斐の南部庄を分封されて治め家を興し封務を執る。[3]元弘元年(1331年)8月に倒幕の陰謀が発覚した後醍醐帝は笠置山に行幸するが、前年の4月、父の南部実継の命を受け上洛した長継は護良親王を奉じて楠木正成の麾下に入っている。高時は元弘元年9月20日、大仏陸奥守、普恩寺相模守、足利治部大輔、他を大将軍とする20万余騎の幕府軍を京を目指し差し向けると正成らは赤坂城に立篭る。
この時幕府軍の中に南部三郎二郎の名が見える[4]。幕府軍は9月,笠置山、10月に赤坂城を落すと翌元弘2年(1332年)3月7日,捕えていた後醍醐帝を隠岐島へ配流すると、12月には捕縛されていた実継が切られている。 元弘3年(1333年)2月11日[5]、大塔宮の発した綸旨を受けた義貞が関東へ戻ると、5月、高氏は幕府に叛き京の六波羅を攻め鎌倉に反旗を翻し、北条仲時、などが討たれるが、義元は甲斐に帰っている。[6]
脚注
出典
- 岩館武敏 『九戸戦史』 1907年 九皐堂
- 吉田政吉 『盛岡南部氏物語』1975年 (株)国書刊行会
- 佐藤今朝夫 『南部史談会誌』 1983年 (株)国書刊行会
- 山下宏明 『太平記』 1991年 (株)新潮社
- 身延町誌 南部氏歴代の勤王