勇山文継
勇山 文継(いさやま の ふみつぐ、宝亀4年(773年) - 天長5年10月26日(828年12月6日))は、平安時代初期の官人・漢詩人。氏姓は勇山連のち安野宿禰。官位は従四位下・東宮学士。
出自
勇山氏は山部の一種である膽狭山部・不知山部[1]の後裔で[2]、『新撰姓氏録』によると、饒速日命の三世孫にあたる出雲醜大使主命の末裔とされ[3]、物部氏の一族とも考えられる。しかし、『日本後紀』の賜姓記事[4]において、連の姓を与えられる以前の姓に関する記載がないことから、それ以前は姓を持たなかったと見られており、実際には白丁(庶民あるいはそれに近い身分)の出身であったと考えられている。
経歴
河内国出身。その前半生は不明であるが、その後の経歴から当時白丁の子弟でも入学が許されていた大学寮文章生出身であったとされている。
弘仁元年(810年)、同族の勇山家継[5]らとともに勇山連の姓を賜与され、この時の官位は従八位下であった。その後、間もなく従六位下・紀伝博士に叙任。翌弘仁2年(811年)1月29日に外従五位下に叙せられ、2月13日には紀伝博士在任のまま、大学助と相模権掾を兼務した。弘仁6年(815年)本貫地が平安京右京に移される。弘仁7年(816年)6月15日嵯峨天皇に『史記』を進講した功績により従五位下に叙せられた。
弘仁14年(823年)従五位上に昇叙されるが、この頃までに安野宿禰姓を賜与されている。淳和朝に入ると、天長3年(826年)正五位下、翌天長4年(827年)従四位下と急速に昇進、またこの間に東宮学士にも任ぜられている。天長5年(828年)10月26日に東宮学士在任のまま死去。享年56。
漢詩人として、勅撰漢詩集三集のいずれも撰者を務めており、『文華秀麗集』・『経国集』に1首ずつ作品が採録されている。
脚注
参考文献
- 黒板伸夫・森田悌編『日本後紀〔訳注日本史料〕』(2003年、集英社)ISBN 4-0819-7005-X
- 久木幸男『日本古代学校の研究』(1990年、玉川大学出版部)ISBN 4-4720-7981-X
- 目崎徳衛「勇山文継」『国史大辞典 1』(1979年、吉川弘文館)ISBN 4-642-00501-3
- 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年