加守田太郎

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加守田 太郎(かもだ たろう 1963年昭和38年)- )は日本の栃木県芳賀郡益子町の「益子焼」の陶芸作家

そして「異才の陶芸家」と謳われた陶芸家「加守田章二」の長男である[1]

人物

1963年昭和38年)に加守田章二細谷昌子の長男として生まれる[1] [2]

世間からは天才鬼才の名を欲しいままにしていた加守田章二であったが
太郎にとっての父・章二は、良き父であったそうである[3]

1983年昭和58年)、父・加守田章二が急逝した19歳の時には東京の音響関係の専門学校に進学していたが
「自分が帰らなければ」と益子に帰郷し、「加守田窯」を継いだ[1][4]

母の昌子が「何十年ぶりか」で轆轤を引いて
太郎が自分の気に入ったようにデザインし模様を付けていく。
父親である章二から「陶芸を全く教わってなかった」加守田太郎の陶芸家修行はこうして始まった[2]

父・章二が遺した遠野の土や、緑、青、黒の釉薬を使いながら、新しい赤色を織り交ぜ様々な模様を試しながら付けていく[5]
そして轆轤を使わずに手びねりで作品を作る[1][6]

父・章二の影響を受けながら、気負いなく淡々と陶作を続けていき
「加守田太郎独自の作品」を築き上げていった[5]

家族

父親は「異才の陶芸家」と呼ばれた加守田章二
母親は父・章二の「塚本製陶所」時代の同僚で、加守田太郎の実質的な師匠である加守田昌子
弟に画家で紙塑人形作家であり工芸作家でもある加守田次郎[7][8]と、
半農半陶の陶芸家である高根沢三郎(加守田三郎)[9]
妻は「濱田庄司由来の酵母」を使った益子町の移動式パン屋 「泉's Bakery」店主である加守田泉[10][11][12][13][14][15]
娘に加守田琳[16][17]がいる。

脚注

出典

参考文献

  • 下野新聞社『とちぎの陶芸・益子』下野新聞社、1999年10月10日、239頁。ISBN 978-4882861096 

外部リンク

加守田太郎 (@tarokamoda) - Instagram