前田利保

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前田 利保
時代 江戸時代後期
生誕 寛政13年2月28日1800年3月23日
死没 安政6年8月18日1859年9月14日
改名 啓太郎(幼名)、利保
諡号 万香、万公亭
戒名 竜沢院殿雲巌良瑞大居士
墓所 富山県富山市長岡の長岡御廟
官位 従四位下、出雲守、長門
幕府 江戸幕府
越中富山藩
氏族 加賀前田氏
父母 父:前田利謙、母:美須
養父:前田利幹
兄弟 松次郎、勝子(前田利幹正室)、
栄子(宗義賢正室)、利保、光子、美子
正室:浅野斉賢の娘・久美
側室:毎木(橋本氏)、峰(糸賀氏)、
艶(渡辺氏)
利鎮利必利文利繁利清、相子、銭子、
湛子、利友利聲利雄利暢利致利通
利龍、梅子、道子、珠子、幸子、依子、英子、
美子、充子、利章、弘子(前田利義正室)、
娘(前田利鬯正室)
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前田 利保(まえだ としやす)は、越中富山藩の第10代藩主。

生涯

寛政12年(1800年)2月28日、第8代藩主・前田利謙の次男として江戸で生まれる。享和元年(1801年)に父が死去したときには2歳だったために家督を継げなかった。文化8年(1811年)閏2月5日、第9代藩主・利幹養子となる。天保6年(1835年)10月19日、利幹が病気のために隠居したため、家督を継いで第10代藩主となった。

相次ぐ凶作などで藩財政が困窮していたため、産物方を設置して陶器製造業、薬草栽培などの国産化を奨励した。特に薬草栽培には力を入れ、自ら「本草通串」「本草徴解」「本草通串澄図」「万香園裡花壇綱目」など、薬草に関連した多くの著作を残している。また、流通を統制し、文武を奨励、相次ぐ外国船襲来に備えて海防を強化するなどした。当時は福岡藩黒田斉清とともに博物大名として知られた。

弘化3年(1846年)10月20日、病気を理由に六男の利友に家督を譲って隠居するが、藩政の実権は握り続けた。ところが、利保の側室であった利友の生母・毎木が藩政に介入するようになり、富山藩は富山派(利保派)と江戸派(毎木派)に分裂して抗争する。嘉永6年(1853年)に利友が早世し、利保の七男で利友の同母弟の利聲が跡を継ぐ。利聲は生母の毎木らと結託したため、江戸派の力が優勢になって利保は藩の中枢から遠ざかるが、本家の加賀藩主・前田斉泰と手を結んで巻き返しを図り、毎木を蟄居に追い込んだ。安政4年(1857年)3月には、病気を理由にして利聲を強制的に一切の政務から遠ざけて、藩政の実権を取り戻した。

安政6年(1859年)8月18日に死去した。享年60。