元羅

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元 羅(げん ら、? - 568年)は、北魏西魏皇族は仲綱。小字は羅刹。

経歴

江陽王元継の子として生まれた。司空参軍事を初任とし、司徒主簿に転じ、嘗食典御・散騎侍郎・散騎常侍を兼ねた。平東将軍・青州刺史として出向した。兄の元叉が北魏の朝廷で権勢をふるうと、元羅にもその余光がおよび、当時の名士の邢卲王元景李奨らを賓客として、青州に引き連れさせた。南朝梁が北伐してくると、元羅は撫軍将軍を代行し、都督青光南青三州諸軍事となって侵攻に対処した。青州の任を退くと、入朝して宗正卿となった。

元叉が誅殺された後、元羅は元叉の未亡人胡玄輝(霊太后の妹)に迫って姦通したという。一説には、彼女に助命を頼むためだった。528年建義元年)、尚書右僕射・東道大使に任じられた。531年太昌元年)5月、儀同三司尚書令となった。まもなく使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・梁州刺史として出向した。

535年天平2年)11月、南朝梁の北梁州刺史蘭欽の攻撃を受け、南朝梁に降伏した。536年大同2年)5月、南朝梁の征北大将軍・青冀二州刺史となり、東郡王に封じられた。540年(大同6年)5月、右光禄大夫の位を受けた。548年太清2年)9月、鎮右将軍の位を加えられた。

549年(太清3年)6月、侯景により西秦王に封じられた。11月、侯景の下で儀同三司の位を受けた。551年大宝2年)1月、侯景の下で太傅に上った。

侯景が滅ぶと、西魏宇文泰の求めを受けて関中に入り、開府儀同三司・侍中・少師となり、江陽王の爵位を嗣いだ。北周が建国されると、固道郡公に改封された。558年明帝2年)9月、韓国公に封じられた。568年天和3年)8月、死去した。

伝記資料