侯成
侯 成(こう せい、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将。
正史の事跡
姓名 | 侯成 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 騎将 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 呂布→曹操 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
呂布の騎将。史書の記述は断片的で、『後漢書』呂布伝や、『三国志』魏書呂布伝の注で引用されている『九州春秋』などに見受けられる。
侯成の客人が侯成の15頭の馬を奪って逃げる事件があった。侯成はこれを追いかけて馬を奪い返し、同僚たちから祝賀される。侯成は酒と猪肉を同僚に振る舞うことを考え、先に呂布に献上してその許可を得ようとしたが、呂布は禁酒中であったために怒り、侯成を面罵してしまう。
これに恐怖と憤懣を抱いた侯成は、建安3年(198年)、呂布が曹操に追い詰められ、侯成も呂布に従って下邳城に立て篭もったとき、同僚の魏続・宋憲と共に反乱を起こし、呂布の参謀・陳宮を捕縛して[1]、曹操軍へ寝返る。その後、呂布は曹操に降伏し、処刑された。
以上の他には、史書に侯成の記述は現れない。
物語中の侯成
小説『三国志演義』では、呂布配下の八健将の1人(序列第8位)として登場する。曹操との戦いでは、曹操を後一歩まで追い詰めたものの、曹操の部将・典韋に撃退される。呂布に酒肉を献上するくだりは史実と同様だが、さらに呂布から罰棒50回の刑も加えられてしまう。その後、呂布の赤兎馬を盗んで曹操に降り、魏続・宋憲と協力して、呂布と陳宮を生け捕りにした。その後は、作中から姿を消す。