佃学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2021年1月22日 (金) 11:57; Akas1950 (会話 | 投稿記録) による版 (→ Check Wikipedia high priority :Unicodeの制御文字=&#x200E (Left-To-Right Mark)を削除しました。: プロジェクト/ウィキ文法のチェック)(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

佃 学(つくだ まなぶ、1938年(昭和13年) - 1994年(平成6年)9月16日)は、日本の詩人

来歴・人物[編集]

香川県高松市に生まれる。1958年、京都大学文学部入学。一回生のクラスはフランス語を第一外国語とする。一回生だけの同人誌「青炎」に参加、詩と短歌を発表。「はじめて佃学に出会った京大宇治分校のサークル室で、彼は既に一級の詩人であり、右手にランボオ、左手に旧制高校寮歌集を携えて、ウブな私の心臓を、もう一人の詩人・宮本武史とともに脅かしたものである」[1]。1964年、60年代に入って休学し、高松に帰郷していたが、この年復学(美術科美術史専攻)。翌65年3月中退。

1966年、早稲田大学第二文学部三年に編入、翌67年10月に中退。高松の「詩研究」に参加。1967年から69年にかけて高松で父親の経営する自動車学校の仕事を手伝うが、のち上京。

1970年4月、結婚。同月、「にゅくす」13号に散文「子午線」。1971年2月、「詩研究」66号に「内乱もしくはnulle part」、3月、「馬」2号に「屋根裏の構図」、4月、「詩学」3・4月合併号に「燃えつきた網膜の底から」、5月、「MATIN」2号に「揺れる水平線をめぐって」、散文「他人の環境」、6月、「詩研究」67号に「tabula rasa」、同月25日第一詩集『不眠の草稿』(母岩社)刊行。江森國友の跋。(60年代の京大時代及びその後の作品で編んだ二冊の自家詩集、65年刊の『精神劇』、69年刊の『時間の空』全23篇のうち14篇を改稿して収録)。9月、「MATIN」3号に「夏の旅」、11月、同誌4号に「秋の旅」、「ピエロタ」13号に「時の懸崖の悲しみの叛乱」、「馬」4号に「仏滅の構図」。1972年3月、「MATIN」5号に「N 'importe ou……」、散文「現在時制」、「ピエロタ」、14号に「重鬱な構図」、9月、「異神」11号に「不安な逃亡」、10月、「詩研究」 71号に「首なし男の悲歌」、「MIDI」創刊号に「朝から昼へ」「劇中劇」「晩夏へ」。

1973年2月、「ピエロタ」18号に「存亡」、4月、第二詩集『劇中劇』(母岩社)刊行。9月、「詩研究」74号から翌74年7月の77号まで断片風エッセイ「二言、三言」「雑感として」「屋根裏のかなたへ」「魂の羽化」、11月9日、新宿オリンピックで『劇中劇』出版祝賀会。12月、「詩と思想」12月号にエッセイ「屋根裏の片隅から」。1974年12月、「唄」5号に評論「森川義信・覚書」。

1975年3月、第三詩集『共同墓地』(紫陽社)刊行。7月、「apocr」を千々和久幸と創刊、「六月の午後から」、9月、「詩学」8・9月合併号より翌年8月号まで「詩誌月評」担当。11月、「apocr」2号に「反復(1)」エッセイ「もっと反吐を!」。

1976年2月、「apocr」3号に評論「吉岡実・覚書」、5月、同誌4号に「衣更着信・覚書」「反復(断片)」、11月、同誌5号に「反復(8)」エッセイ「痴愚神問答」。1977年4月、「apocr」6号に評論「無垢への遡行、あるいはわがオブセッション」。「PEAPLE」5号に散文「ある傍証の試み」、10月、「apocr」7号に「机の下で」「糞尿譚」。

1978年3月、「Who's」20号に評論「暮鳥断想」、第四詩集『海景』(母岩社)』刊行ヨシダ・ヨシエ跋。8月、千々和久幸、緑川登ら「邯鄲」創刊、同誌に「earthquake」、エッセイ「自我の隘路・覚書」、11月、「詩研究」90号に「晩夏まで」、「Who's」22号に散文「妄誕、あるいは曖昧なる自明(a)」。1979年3月、「Who's」23号に「妄誕、あるいは曖昧なる自明(b)」、4月、「邯鄲」2号に「森のむこうで」、エッセイ「疾患問答」、10月、「邯鄲」3号に「作品Σにいたるメモ」「幻日」、エッセイ「葛藤考──現状突破のためのメモ」。1980年6月、『作品集*白図』(邯鄲舎)刊行。7月、「無限ポエトリー」8号に「陰気なメモ」、「邯鄲」4号に「貘にのみこまれた夢のなかで」「新潟まで(一九八〇)」、10月、「詩研究」97号に「紙くずかごから」、「舟」21号に「出し忘れた夏の手紙」。1981年1月、「邯鄲」5号に「(何という日々!)」エッセイ「斎場の孤独」、4月、「舟」23号に「便箋うらのメモ」、「使者」9号に「呪禁の地で」、7月、「舟」24号に「六月のけものへん」、8月、「邯鄲」6号に「炎天拾遺」。

1982年3月、詩論集『詩と献身』(レアリテの会)刊行。(「江森國友・試論」は初出「舟」27号に「(日も月も)」、8月、「邯鄲」7号に「(一頭のケンタウロスが……)」「昆虫標本の裏側で」、エッセイ「偏愛的世界の入口で──安宅啓子詩集『薔薇通り』を読む」。1984年9月、「邯鄲」8号に「閑古鳥」「冬来たりなば」「〝MU〟」、断片エッセイ「黒い夢」。以上は佃真夫の筆名で発表、12月、「邯鄲」9号に「挿し絵2点」、エッセイ「空白頌」、この号は佃牧夫の筆名で。

1985年3月、「邯鄲」10号に「虎穴にて」、エッセイ「小心録」佃牧夫の筆名で発表、8月、「砦」59号に「夏だより」、11月、「詩学」11月号に「花の里から」。

1986年4月、「砦」60号に「奈落小景」、エッセイ「寸感(山本哲也『静かな家』)」、8月、「砦」61号に「泰山木の花のなかにも」、エッセイ「小母的夢の狭間で」、12月、第五詩集『炎天』(沖積舎)刊行。1987年2月、「砦」62号に「(シジューカラがまた私をさがしている)」、エッセイ「闇との対峙」、四月、「砦」63号に「(シジューカラがまだ……)」。同誌は「佃学詩集『炎天』をめぐって」小特集を組み、佃はエッセイ「嫌悪と韜晦」を、同人塚本龍男、みづきみづ、藤維夫、千々和久幸、山本哲也が佃の作品論を発表。9月、「砦」64号に「夏至のほとり」。1988年3月、「砦」65号に「冬のカルテ」山本哲也との往復通信。9月、「砦」66号に「(思いつくままに)」。1989年2月、「砦」67号に「枝分れした枝のはずれで」、エッセイ「かにかくに──わが夏象冬記」、7月、「砦」68号に「曇天」、11月、「砦」69号に「夏の公案」、エッセイ「不治の言葉」。

1991年12月、第六詩集『(花粉症のような)』(邯鄲舎工房)自家製私家本刊行。1992年3月、「邯鄲」11号(復刊号)に「〈地獄坂〉メモ」「五月雨病前線」、6月、第七詩集『艾』(邯鄲舎工房)刊行。「邯鄲」12号に「夜が明けるまで」、エッセイ「紫苑よ」、9月、「邯鄲」13号に「輪禍のように」、12月、「邯鄲」14号に「十一月」「夢の奥」。

1993年3月、「邯鄲」15号に「(最初の旅は……)」「(猫の目のなかで)」「雲のきれはし」「行くのか帰るのか」、11月、腰痛ひどく11日荻窪病院に検査入院、同12日手術、S字結腸ガンと判明。12月24日退院、三ヵ月、もって半年という医師の診断、リンパ節、肝臓にも転移。1994年2月、「邯鄲」17号に「サンクチュアリ破産」「キツツキは……」。7月、「邯鄲」18号に「無人駅まで」「どしゃぶりまであと一秒」、9月16日、西荻中央病院に入院。23日5時没。享年55歳。同日、第八詩集『ネワァーン・ネウェイン洗脳塔』(砂子屋書房)刊行。11月、「枝」4号に「ミズスマシ」、「詩学」11月号に「古い男、古い季節」。12月、「現代詩手帖」12月号年間アンソロジーに「〈地獄坂〉メモ」。

作品[編集]

  • 第一詩集『不眠の草稿』1971(母岩社)
  • 第二詩集『劇中劇』1973(母岩社)
  • 第三詩集『共同墓地』1975(紫陽社)
  • 第四詩集『海景』1978(母岩社)
  • 『作品集*白図』1980(邯鄲舎)
  • 詩論集『詩と献身』1982(レアリテの会)
  • 第五詩集『炎天』1986(沖積舎
  • 第六詩集『(花粉症のような)』1991(邯鄲舎工房)
  • 第七詩集『艾』1992(邯鄲舎工房)
  • 第八詩集『ネワァーン・ネウェイン洗脳塔』1994(砂子屋書房)

全集・選集[編集]

  • 佃学全作品 (全3巻) 2018 (田畑書店)

脚注[編集]

  1. ^ 清水哲男『唄が火につつまれる』1977(思潮社)