伊賀光宗

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伊賀光宗
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 治承2年(1178年
死没 康元2年1月25日1257年2月10日
改名 光宗、光西(法名)
官位 従五位下
幕府 鎌倉幕府 政所執事、評定衆
主君 藤原頼経頼嗣
氏族 藤原秀郷伊賀氏
父母 父:伊賀朝光
兄弟 光季光宗光資伊賀の方結城朝光
北条朝直
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伊賀 光宗(いが みつむね)は、鎌倉時代初期から中期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。父は伊賀朝光

姉妹である伊賀の方が2代執権北条義時の後室となり、自身も政所執事を務めるなど、有力御家人として重用されたが、元仁元年(1224年)、義時が急死すると、妹と共に藤原頼経を廃して一条実雅を将軍、甥北条政村を執権に据えようと画策。政村の烏帽子親である三浦義村にも支援を求めたが、計画は未遂に終わり、信濃国に流された(伊賀氏の変[1]。しかし、北条政子の死後、罪を許され、所領を回復。寛元2年(1244年)には、評定衆に就任した。康元2年(1257年)1月25日、80歳で死去。

脚注

  1. ^ 伊賀氏謀反の風聞については北条泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。伊賀氏の変は、影響力の低下を恐れる政子が義時の後妻の実家である伊賀氏を強引に潰すために創り上げた事件とする見方もある(参考文献:永井晋『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす日本放送出版協会)。

関連項目