中山伊知郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Bellcricket (会話 | 投稿記録) による 2012年4月30日 (月) 09:39個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Bellcricket がページ「中山伊知郎/del20120430」を「中山伊知郎」に、リダイレクトを残さずに移動しました:Wikipedia:削除依頼/中山伊知郎)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

中山伊知郎
近代経済学
生誕 1898年9月20日
死没 1980年4月9日
研究分野 純粋経済学
影響を
受けた人物
ヨーゼフ・シュンペーター
実績 日本に近代経済学を導入した
テンプレートを表示

中山 伊知郎(なかやま いちろう、1898年9月20日 - 1980年4月9日)は経済学者一橋大学名誉教授。日本における近代経済学の導入に貢献した。1963年から1980年まで学士院会員。1968年文化功労者。第4期日本学術会議副会長。勲一等瑞宝章受章。

経歴

父は三重の山田で山田朝報という新聞社を創業し、主筆を務めた。旧制宇治山田中学(現三重県立宇治山田高等学校)、神戸高等商業学校(現神戸大学)を経て、1923年に東京商科大学(現一橋大学本科を卒業し、同年4月、東京商科大学大学助手に就任。高等試験行政科試験に合格。1927年ボン大学に留学し東畑精一とともにシュンペーターに師事する。1939年経済学博士(東京商科大学)。戦時期には近代経済学のなかでも理論研究を重視する「純粋経済学」の担い手とされた。

1927年東京商科大学講師嘱託、1933年同助教授、1937年同教授を経て、1949年同学長となる。一橋では、上田貞次郎門下が経済政策を講義していたことから、福田徳三門下の中山は経済政策の講義を担当することができなかった。そこで、東畑精一の誘いを受け、1939年から学長就任の1949年まで東京帝国大学で経済政策の講義を行った。また、1950年中央労働委員会会長、1956年産業計画会議委員(議長・松永安左エ門)に就任した。1964年一橋大学名誉教授。

長女は童謡作家・翻訳家の中山知子。次女の夫は経済官僚の垣水孝一

教え子

中山ゼミ出身者としては荒憲治郎篠原三代平板垣與一鈴木茂魚本藤吉郎伊藤助成などがいる。

著書

単著

  • 『戦争経済の理論』(日本評論社, 1941年)
  • 『発展過程の均衡分析――発展を含む経済均衡の性質に関する一研究』(岩波書店, 1942年)
  • 『戦争経済の動向』(大理書房, 1944年)
  • 『戦後経済の展望』(白日書院, 1947年)
  • 『近代経済学の展開――完全雇傭の理論』(有斐閣, 1950年)
  • 『初等経済学講義』(勁草書房, 1955年)
  • 『新しい経営者・新しい労働者』(有紀書房, 1958年)
  • 『資本主義は変ったか』(東京出版, 1958年)
  • 『労使協議制』(日本生産性本部, 1960年)
  • 『日本の近代化』(講談社, 1965年)
  • 『物価について』(中央公論社, 1967年)

編著

  • 『ケインズ――一般理論解説』(日本評論社, 1942年)
  • 『統計学辞典』(東洋経済新報社, 1951年/増補版, 1957年)
  • 『資本』(河出書房, 1952年)
  • 『日本經濟の構造分析(上・下)』(東洋経済新報社, 1954年)
  • 『資本蓄積の研究』(東洋経済新報社, 1956年)
  • 『日本経済の解明――近代経済理論より見た問題点』(東洋経済新報社, 1959年)
  • 『賃金問題と賃金政策』(東洋経済新報社, 1959年)

共編著

  • 有沢広巳後藤誉之助)『日本の経済――経済白書の解説と批判』(至誠堂, 1957年)
  • (有沢広巳・大河内一男)『新しい社会労使関係』(サンケイ新聞社出版局, 1967年)
  • 金森久雄荒憲治郎)『有斐閣経済辞典』(有斐閣, 1971年)
  • 篠原三代平)『日本経済事典』(講談社, 1973年)
  • (荒憲治郎・宮沢健一)『原典による経済学の歩み』(講談社, 1974年)